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2002/12/31(火):帰ってきた街は・・・

 今年もあと残すところ3時間。今頃、皆さんは紅白見ながら年越しそばでも召し上がっておられるのでしょうか。私の場合、土壇場になって引越なんぞをしたもんですから、今年の暮れは年賀状を書く暇もないほど、あっという間に過ぎ去ろうとしています。日記ももう半月以上も滞ったままでしたので、せめて最後のご挨拶ということでせっせと筆をしたためているところです。筆じゃなくてキーボードじゃないかって?そうなんですが、“キーボードをせっせと打って”じゃあ、やはり季節の言葉としては感じが出ないでしょう。

 こんな忙しい最中になにも引越なんてしたくはなかったんですが、建替で立ち退かなくてはならなかったわけですから仕方がありません。というわけで帰って来たんです、吉祥寺。実は4年前までは吉祥寺に住んでいたのですが、独立してからは仕事優先ということで、事務所のそばに移り住んでいました。初台に2年、東中野に2年いましたが、交通至便ではあってもあまりにごみごみしていて潤いというものがなく、散歩をする気もおきないようなところはやはりイヤだという結論に達したのです。改めてどこへ越そうかと考えたとき、歴史があって、街が面白くて、暮らしやすくて、便利なところと考えると、私にとってはやはり吉祥寺が一番でした。

 戻ってきてみて、4年間で街の様相というのも随分と様変わりしていました。美容室がやたらに増え、大手資本の店が随分と増えました。近鉄百貨店の後にはなんとあの大塚家具までも・・・。でも、表面的には新しくなっていても吉祥寺は吉祥寺。昔から続いている店は相変わらずですし、別に新しい道が出来たりとか、わけのわからない巨大なビルがいきなり出来たりということもありません。井の頭公園もいただけない整備がちょくちょく行われていたりするのがちょっぴり気がかりですが、それ以外は特段変わった点は見あたりませんでした。

 実は、この街は単に暮らすのにいい街であるというばかりでなく、いろんな意味で日本の都市のよきモデルだと思っているのです。私も専門家の端くれですから、漠然と過ごしているだけではなく、ちゃんと見るところは見ているつもりです。どういう点がそうなのか・・・ということを書き始めるととても今年中には書ききれませんので、その話題は年が明けてからまた改めてしたいと思います。

 いろんなことがあった2002年ですが、いよいよあと残り2時間となりました。それでは皆さん、良いお年を!!

2002/12/12(木):赤道(あかみち)事件

 赤道(あかみち)というのをご存じでしょうか?地球の真ん中を走っている線のことではありません。公図上に赤い線で描かれる道ならぬ“道”。歴史的に存在した道のうち、道路法ですくい上げられた正規の道以外の道を赤道、里道、あるいは赤線と呼んでいるのです。言ってみれば、見捨てられた“道”。その赤道(あかみち)を巡って最近ちょっとした事件がありました。

 実は、現在、ある方の土地探しのお手伝いをしています。その方は東京を離れ、信州某所の山麓に、自らの住居&アトリエを構えるべく、土地を探しておられます。そんな場所ならば土地なんていくらでも見つかるのではないかと思いきや、都会とはまた違ったしがらみがあり、なかなか良い土地は出てきませんでした。ところが、ごく最近になって、非常に良い土地が見つかったのです。唐松の明るい林に囲まれた緩やかな斜面。前方は景色が大きく開け、青い山並みを望み、後方には美しい林を抱く素晴らしい場所。クライアントだけでなく、ご家族全員が現地に出向きその場所の良さを確認し、最後に私が呼ばれ現地を確認しました。土地としてほぼ申し分なく、水や電気の問題もクリアでき、そのご家族が新たな暮らしを始められるのにぴったりの場所であると太鼓判を押しました。

 ところが、契約の直前になって“事件”は起きました。ある日、クライアントのKさんから、携帯に電話がありました。重要事項説明書に気になることが書いてあるというのです。購入しようとした土地は2筆に分筆されていたのですが、公道に面する手前の土地と公道に面さない奥側の土地の間に“赤道”が挟まっていて、つまり、奥の土地は接道していないというのです。赤道は建築基準法上は道とはみなされないのでそのままでは建物は建ちません。私も公図は確認していました。ところが、Kさん経由で不動産屋から渡された公図はおそらく意図的だと思いますが、“赤道”が見えないようわざと薄くコピーされていたのです。“赤道”の存在は不動産屋からもいっさい説明がなく、その事実は単に重要事項説明書の片隅にひっそりと書かれていただけでした。

 Kさんが不動産屋に事実を問いただすと、バツが悪そうに、いや許可を取れば可能だと思ったとかいろいろといいわけしようとしていたそうです。挙げ句の果てに不動産屋の方から、今回の件はなかったことにしてくれと言ってきたのです。要するに詐欺に近いことをしようとしたわけです。いや、詐欺そのものといって良いかも知れません。気がつかなければ儲けもの。ところが、あいにくKさんが気がついてしまったため、これはそのまま話を進めるとヤバイと思ったのでしょう。

 実は“赤道”の件が発覚してからも、接道していない奥の土地に建物を建てる方法をKさんと共にいろいろと画策していました。“赤道”を払い下げてもらう方法。“赤道”をはさんで前側の土地と奥側の土地を一体に扱ってもらう方法。隣接地権者との土地の交換まで打診していました。“赤道”の件を除けば土地としては非常に良い土地だったので、なんとか打開策を見つけようとしたのは、私たちとしては当然のことでした。ある程度メドが立った矢先に不動産屋から「降りたい」との電話。その時点で今までの努力はいっさい水の泡になったのです。

 こちらは取得したいと思っているのに、向こうから降りるとわざわざ言って来たことが、「詐欺」だということを改めて証明しているようなものです。悪いヤツラというのはほんとものの見事に尻尾を現すものだと、改めて感心?した次第です。

 期待が大きかっただけに、私自身もものすごくショックでガックリ来ましたが、クライアントやそのご家族がどれほど落胆されたかは想像に難くありません。さんざん苦労されてようやく辿り着いた土地なのです。さらに、問題なのは、我々の後にこの物件に引っかかる被害者が必ず生まれるということです。売り主や業者は単に“カモ”を探しているだけなのです。地元で営業しているのにもかかわらず、そのようなタチの悪いことを平気でしでかしているのですからたまりません。

 建築業者もヤバイ業者はいくらでもありますが、不動産の方もそれにひけを取りません。いや、タチの悪い業者が多いことではむしろ上を行っているでしょう。要望に沿って親身になって探してくれるところはあまり多くはないように思います。弟の土地探しにもつき合いましたが、ほんと気の毒になるくらい、散々なことを言われていました。曰く、そんな土地はない。土地だけ探すのなんて止めて、建売にしなさい。建築家なんかに頼むと問題ばかり起きる等々。余計なお世話ですね。要するに、お客さんの要望に叶うものをまじめに探そうなんて気はさらさらなく、自分に都合のいいものを売りたいだけの話です。

 幸い?、バブルが崩壊し、不動産物件も随分とだぶつくようになって来ました。売り手の論理ではとてもやっていけないはずなのに、長年に染み着いた性根は容易には変えられないようです。

 土地探しはほんとうに根気のいる話です。弟の場合も、兄が設計をやっているのにも関わらず、もう自分たちには家づくりなんてとても無理だと何度もあきらめかかったようです。でも、最終的にはいい土地に巡り会い、家づくりを貫徹することができました。とにかく、根気よく、気長に。苦労すればそれ以上の喜びが必ずその後には待っている。それを信じて頑張っていただきたいものです。

2002/12/01(日):22年という年月

 昨日、何年かぶりに高校の同窓会がありました。高校の仲間ともなんかすっかり縁遠くなってしまったなあと思っていたら、卒業してはや22年にもなるのです。

 最初、会場へ入ったとき、ここが自分が帰属する場所であるということを素直には認めたくありませんでした。どう考えても若いとは言い難い皆々の顔。もちろん、それは自分とて同じこと。ただ、毎日毎日少しずつ歳を取っているので、自分自身に訪れている年月の蓄積というものに全く気がついていなかったのです。友の姿を見たとき、あたかも鏡を見るがごとく、一気に自分の姿ともなってはね返ってきたのです。

「もう僕らは若くない」

 歳月は間違いなく22年という年月を刻んでいました。でも、とまどいを胸にいだきつつも、何人かと話をしているうちに、まるで暗闇に目が慣れるかのごとく、次第に違和感が取れていきました。どこの人だか良くわからなかったおじさん達の顔がみるみるうちに若き日の少年の顔に戻っていきました。

 予定した時間があっという間に過ぎ、皆とも別れて帰りの電車の中でふと考えました。一体、どっちの感覚が本当だったのだろうかと。冷静に考えればもちろん最初の方でしょう。でも、それがわかっていてもそれをにわかには信じたくはないという気持ちもどこかにはありました。

 年月のギャップをこれほどまでに強く感じたことは実は生まれて初めてかもしれません。既に六児の父となっているY君。娘が来年大学受験を迎えるといっているK君。一方で、私のように40にもなろうというのに今だに人生を一人で彷徨っている人間もいる。そして若くして既に神に召されていった友も数えてみたらなんと4人にものぼるのです。

 私自身、ここ数年でほんと時間の感覚が変わってしまいました。人生はあっという間だといいますが、本当に速い!あまりにも速すぎる!こんなに速く進むっていうことをどうして誰も教えてくれなかったんでしょう。いやいや、多くの先輩が人生は短いよと何度も何度も教えてくれていたはずです。私自身がわかっているさと聞き流していただけなのです。わかっているさ、いや実は何一つわかっていなかったのかもしれません。

 誰かが人生は20年をひとつのサイクルと考えるのがいいと思うと言っていましたが、その通りかもしれません。つまり、大人になるのに20年。社会的に本当に一人前になるのに20年。では、次の20年で一体何をやるべきなんでしょう?そして、その次の20年は果たして私には訪れるのでしょうか?いやいやそんなことを考えるのはよしましょう。今日がなければ明日は来ないし、明日が来なければあさってはないのですから。「明日はもしかすると来ないかもしれない」最近は真剣にそう思うようになりました。

 おっと、そんなことを書いていたら、いつの間にか12時を回ってしまいました。早く帰って寝なくては・・・。

「明日がまた無事に訪れますように」

2002/11/24(日):冬将軍、冬支度

 ここんとこ急激に寒くなり、街ははや師走気分。冬将軍の到来とともに、私にしては珍しくデパートや専門店をハシゴし、冬物衣料を買い込んで来ました。高島屋なんて事務所のすぐそばだし、なんだかんだで週に一回以上は寄りますが、ほとんどの用は地下ばっかり。洋服のショップっていうのは、ちょっと見てるだけでもすぐに声をかけてきて聞きもしないことをなんだかんだと説明しだすのでふだんはあまり寄りつかないことにしているのです。でも、見出すといろいろと欲しくなってきて、あちらこちらへと移動する羽目になりました。

 最近はナイロン製のピシっとしたデザインのものが比較的ハヤリのようですが、中肉中背の自分の体型ではやや辛いものもあります。でも、似合わないかなとは思いつつも一応は試着してみることにしました。お店の人は似合わなくても似合うと言って来ますから、軽〜く無視して鏡に映った自分の姿を冷静に眺めてみたらやっぱり似合わない(笑)。そんなんで自分に合うものを探すのに随分と時間がかかってしまいました。

 お店の人も無理無理に勧めたがるヤーな感じの人とさりげなく勧め上手の人がいますけど、やっぱりさりげない人から買う方が気持ちがいいことは間違いありません。ある店でちょっと変わったセーターがあって、いいなあと思ってみていたら、若い店員がさりげなく話しかけてきました。

「これ個人的に僕のお気に入りでして、ちょっと工夫してディスプレイをしてみたんです」

売る人が売るものを気に入っているというのはすごく大事なこと。最後に言った

「また是非遊びにいらしてください」

というセリフもちょっぴり気が利いていました。最近はそういう言い方をするように教育されているのか、それとも彼のアドリブなのかはわかりませんけれど。

 もともと私は服装には無頓着な方だと思います。服に興味がないっていうわけではないのですが、使えるものを捨てるのがすごくイヤなので、着れるものはボロボロになるまでついつい着てしまうんです。長く使えるものだったら多少無理してでもお金をかけますが、洋服のようなすぐに新しいものに置き換わってしまうようなものにはあんまりお金をかけたくないんですよね。

 服装っていうのはいいにこしたことはないと思いますが、家がウサギ小屋なのに洋服だけにはお金をつかうという発想は実はあんまり好きではありません。日本にいるとそういうのは当たり前のように見えますが、海外で見る日本人の集団は妙にこぎれいでかえって浮いた感じに見えます。だから自分自身の服装感覚は“ワールドスタンダード”だと勝手に納得しているのです。でも、私も一応、デザインにかかわっている人間なので、その辺のものを適当に羽織って打合せに行くっていうのはヤッパリまずいかもしれません。これからは服装にももうちょっとは気を使うことにしますかね(ちょっとだけ反省)。

2002/11/22(金):真のサイトデザイナーはいずこに?

 HPを開設してまもなく4年が過ぎようとしています。とりあえず作ってみただけの段階から、ちょっとづつ改良し続けてきた結果、自己流ではありますが、少しはまともにはなってきたようにも思います。

 コンテンツはこれからもまだまだ充実させていくつもりなのですが、問題はデザイン。ここまでは全部自力でやってきて、素人レベルとしてはまずまずかなとも思うのですが、これ以上のグレードを望むなら、もはやプロの力を借りるしかありません。

 私のサイトをグレードアップしてくれるwebデザイナーの方いないかしらと、暇を見つけてはいろんなサイトを渡り歩いているのですが、実は、これはというサイトにはなかなか巡り会わないのです。カッコイイサイトは山ほどあるのですが、インターネットにおけるサイト開設の意味や特質を十分に理解し、サイトの“構成として”表現と内容が摺りあった優れたデザインというのがなかなか見あたらない。

 ネットサーフィンをしていて最も多く出くわすのが、雑誌やカタログの延長線上のようなデザイン。ページが一枚の完結したグラフィックとしてデザインされていて、確かにキレイなのですが、な〜んかポイントをはずしている。一方で、動きを入れることによって見栄えを良くしたサイトも数多く見受けられるようになりましたが、サイトデザインとしてはちょっとばかり人目を引いたとしても、他の映像メディアと比べたらこれも子供だましの仕掛けにしか見えません。

 サイトというのは、今まさしくアクセスしているページが目的であると同時に、ハイパーリンクがゲートとなって入れ子状に他のページと繋がっていくことが最大の特質であるわけです。ですから、良いサイトデザインとは、そのようなネット上での構造が人間の動作に見合ったようにデザインされ、なおかつ視覚的にも美しくかつ印象的なものをいうのでしょう。ページデザインの美しさもさることながら、“コンテンツをいかに構成するか”の方が重要なのです。繰り返し見るということも意識しておかなくてはなりません。トップページにフラッシュを使うのが悪いとは言いませんが、ローディングのたびにいちいち時間がかかったら、果たして繰り返し見たいと思うでしょうか。その他、通信速度やパソコンの能力の差による読込スピードの違い、OSやブラウザーの違いによるフォントやレイアウトの違い、モニターの大きさによる画面解像度の違いなど、アクセスする人の環境が千差万別であるということも十分に考慮して置かなくてはなりません。

 そのような課題をこなしつつ、素人では及びがつかないレベルのデザインが出来て、初めて“サイトデザインのプロ”と言えるのだと思いますが、現状では、いろんなサイトを見る限り、ほとんどのサイトデザイナーは“フラッシュの使えるグラフィックデザイナー”の域を出ていないような気がするのです。あとひとつ思うことは、構造デザインの欠落という点とも共通するのですが、「これは何?」ということに関する意思表示が欠落しているということです。主語がないんです、主語が・・・(*)。まあ、結局は単に表面的なデザインが問題なのではなく、サイトプロデュース全体の問題なんですが、要するにプロデュース能力も持ち合わせたデザイナーじゃないと意味がないでしょということをいいたいわけです。

 アーティストのサイトなんかには美しく印象的なサイトはあることはあるのですが、サイト=アート作品という解釈でいきなり作品のプレゼンテーションに入られても、それだけではなんか違うと感じるのは、ちょっと欲張りな意見でしょうか?

 自分でこれ以上デザインするのもそろそろ限界に近づいているのですが、かといって、サイトデザインの本質を理解しないグラフィックデザイナーにデザインを任せる気にはちょっとなれないというわけです。それなら自分でやった方がましだと思ってしまうのです。

 世間は広いですから、サイトデザインの本質をついた優秀なサイトデザイナーは必ずやいらっしゃるでしょうけど、今のところ、“出会い”はまだありません。ということで、「これはいい」というサイトデザインに出会ったら是非是非教えていただければと思います。

 

注(*):詠み人知らずというのもありなので、いつでも主語の意思表示をしなくちゃいけないということではないですが、それを意図的にするのと無自覚なのはやっぱり違うと思います。

P.S.企業のサイトの中では、オーソドックスですがやはりアップルのサイトがいいですね。白を基調にしていて飽きが来なくて見やすい。構成が比較的わかりやすい。アップル社以外の余計な広告が埋め込まれていないことも好感が持てます。インターフェイスにこだわる会社ならではという感じでしょうか。ただ、ボタンとかを画像化しているので、読込スピードは結構遅いです。ためしに携帯電話(64Kbps)経由でアクセスしてみましたが、かなりイライラしました。その点、私のサイトの方がはるかに優秀(笑)。何より、余計なことをしてませんから・・・。

2002/11/17(日):建売とベンツ

 「建売とベンツ」

 この国の貧しさを現している代表的な風景をひとつだけ挙げよ?ともし聞かれたら、自分ならきっとそう答えるだろう。街中に次々と生み出される猫の額のようなミニ開発。家とは対照的にデーンと居座るメルセデツベンツ。都会では実によく見られる現象だけど、そのような光景に出くわすたびにやるせない気持ちになる。

 家が小さいのは仕方がない。地価が高いから小さくなってしまうのはごくごく自然な道理だと思う。だったら集合住宅にすればいいのにとも思うけど、集合住宅は区分所有の問題もあるし、ある意味で小さくても我が家をというのはまっとうな願望だと思う。

 問題はその先だ。小さくても工夫をすればいいのだけれど、乱立するミニ開発の建売住宅のほとんどは工夫など全くないとんでもなくちんけな代物である。最近、事務所の近くにもへんてこりんな建売住宅が相次いで建った。ほとんど何も考えていない設計。雑な施工。とってつけたような張りぼてのデザイン。こんなものいったい誰が買うんだろうと思って見ていると、さすがにすぐには買い手はつかないが、しばらくするとちゃんと人が住んでいる。しかも玄関先にはピカピカのベンツが・・・。

 建売が全て悪いとは言わない。既に建っているものを選んで買うというのはそれもひとつの解答だ。でも現実には、建売というのはほとんどのものがとんでもなくお粗末な代物である。業者が悪いんじゃない。そんなものを買う方が悪いのだ。もし、ベンツを買う500万のうち300万を設計料に回したら、みちがえるような内容の建物が手に入り、なおかつ車だって買えるだろう。でも、この国のほとんどの人はそのような知恵の使い方は“絶対”にしない。めんどくさがって安易なもので間に合わせてしまう。さすがにどんな人でもそれでは満足できないから、せめてもの埋め合わせに一点豪華主義の見え張る君に走ってしまうのだ。

 そんなことは個人の自由だって?いやそんなことはない。風景というのは自分一人のものではない。一種の共有財産なのだ。第一、小型車の方が合理的な狭い敷地にもかかわらず、デカくて豪華な車をわざわざ買うのは、当然のことながら他人へのメッセージという意味合いが強い。これ見よがしなものばかりにお金をかけ、ベーシックなものへの意識はスッカラカン。残念ながら、この国の人々の価値観は依然としてその程度のレベルにある。たとえばこんなカンジです。

家よりも人よりも一番エライのが車。とってつけたようなマドとタイルのデザインにも注目!!

家の床下に突っ込んたベンツ。ここまでされてベンツも幸せ!?

 あ〜あ、と思うでしょ。でも、これを他人事だと思わないで欲しい。よく見ているとこの程度のものは結構街中に溢れている。全体的な質の向上を地道に図ろうとせずに、手っ取り早く安易なもので埋め合わせをするというのは、ほとんどの人が陥っている病巣なのだ。そうでなくちゃ、この国が今のような姿になっているはずはない。

 このような住宅の住人はなにも特別の人ではないだろう。もしかしたらそこそこ教養(通俗的な意味での)もあって、料理も服装もそれなりの人であるのかもしれない。センスがないと言えばそれまでだが、それだけで片づけてしまってはいけないのだ。問題はより大きな世界に対する関係性への配慮という視点が全くといって欠けていることにあるのだと思う。さっき、設計の方に知恵を使えばいいと言ったけど、おそらく建築家に頼んだら、建物単体は美しいものにはなるかもしれないけど、かならずしも隣との関係、あるいは街との関係が良好になるとは限らない。全体との関係性のつながりには目をつぶり、部分だけを指向する態度というのは、知識人の中にも非常に広く蔓延しているからだ。都合の良いことばかり見えていて、都合の悪いことは見えていない。あるいは意図的に見ようとしない。「建売−ベンツ」というのは、そのような意識を代表する最もチープな例として取り上げたまでである。ダサイと思った瞬間、自分だけはカヤの外にいる。その方がはるかにヤバイことなのだ。

2002/10/27(日):秘湯中の秘湯

 先週、久しぶりに休暇らしい休暇を取り、友達を誘って那須へと行ってきました。那須にはもう何年も前からずっとずっと行きたいと思っていた三斗小屋温泉という秘湯中の秘湯があるのです。那須岳のちょうど裏側に位置し、周囲には人家など全くない山のど真ん中。最低でも2時間以上の“登山”をしないと辿り着かない秘境です。近年の秘湯ブームで人気が出てしまい、なかなか予約が取れなかったのですが、平日休みが取れたおかげで、ようやっと念願かなうことになりました。

 三斗小屋温泉は、もともとは那須から会津へと抜ける会津中街道の宿として、5軒の宿があったところです。しかし、現在まで続いているのは煙草屋と大黒屋の2軒のみ。場所も現在では宿場があった場所からはだいぶ高いところへ移っています。ついでだから山へも登ろうということで(ほんとはそっちがメインなんですが)、黒尾谷岳〜南月山〜茶臼岳とめぐって、待望の温泉へ着いたのは日も随分と傾きかけた頃でした。あたりの紅葉は既に終わりかけていましたが、落葉後の木立が林立する様は、紅葉の華やかさとはまた違った風情がありました。秘湯らしい侘びしさはむしろこの時期の方が際だっているのかもしれません。

 日が落ちるとあたりはまさに闇。夕食後、もののけが気配をうかがっているのではないかと思われるような真っ暗がりの中、懐中電灯だけを頼りに露天風呂へ入りました。雲がかかりあいにく星空は見えませんでしたが、闇を満喫するためにはむしろその方が良かったでしょう。温度もちょうど良かったので、2時間近くもぼんやりとお湯に浸かっておりました。翌朝、朝もやが立ちこめる中、もう一度お湯に浸かりに行きました。あらゆるものの輪郭がぼんやりしていて、身も心も周囲の風景へと溶け込んでしまいそうでした。もやの中、ダケカンバの白い幹の輝きだけが幾筋も浮かび上がっていたのが印象的でした。

 ヒトはいうまでもなく、大自然の中においては無力な存在です。ヒトが快適に暮らせるのは文明という第二の外皮につつまれているからです。ヒトがもし大自然の中に身を置こうとするのなら、通常は必ず文明という外皮を纏う必要があるのです。秘湯は温泉という神通力によって、大自然の中でもヒトが開放的でいられる場所。大げさに言えば、ヒトが文明という外皮を取り去って動物としての本性を取り戻せる唯一の場所であるのかもしれません。ヒトは秘湯にはまるべく最初から仕組まれているのです(ちゃんと笑ってよ)。

 私は決して秘湯マニアではありませんが、秘湯好きであることは間違いありません。最後に、私が選ぶ特選秘湯ベスト5というのをご紹介しておきましょう(北から順)。

1)カムイワッカの湯

知床半島の先端近くにあり、川の流れが温泉であるという夢みたいなところ。川に温泉があるのではなく、川が温泉なのです!しかも、このカムイワッカ川は、河床全体が一枚岩のスラブでできているという素晴らしい川。日本広しといえどもこれほど美しい川はそうめったにあるものではありません。温泉といっても別に宿があるわけじゃなく、滝壺のようなところをみつけて適当に入るのですが、下流は冷水が混じってだんだんとぬるくなってゆくので、いい湯加減のところに到達するためには、林道からさらに30分ほども川を遡らなくてはなりません。川の中を水に濡れながら要するに沢登りのようなことをするわけです。自分が訪ねたときには普通の観光客もどんどこどんどこ登っていましたが、かなり危険な場所もあって、温泉に辿り着くまでにはかなり冷や汗をかかされました。実際、前を歩いていた女の子が足を滑らせ数メートル下の滝壺へドボン。落ちた場所が水だったので事なきを得ましたが、岩だったらきっと大変なことになっていたでしょう。

自分が行ったのは秋の行楽シーズンだったので秘湯とはおもえないほど多くの人でごった返していましたが、人が少ない時期はクマにも要注意。何しろ、知床と言えばヒグマのメッカですからね。ヒグマと一緒に温泉に入りたい方には特におすすめです(笑)。なお、川を登る際は、わらじに履き替えること。滑るので靴や裸足はぜったいダメ。わらじは林道のところで貸し出していますが、オフシーズンにもやっているかどうかは不明です。

2)安達太良山くろがね温泉

智恵子抄で有名な安達太良(あだたら)山の山懐にいだかれた一軒宿。旅館ではなく完全な山小屋(くろがね小屋)でここも3時間ぐらいは歩かないと辿り着かない場所です。森林限界を超えたところにあるので、秘湯といっても明るい感じのする気持ちの良いところです。残念ながら露天風呂はなく内湯のみ。30年前にトリップした気分を味あわせてくれる素敵な?山小屋でもあります。どういうことかって?それは行ってみればわかります。

3)那須三斗小屋温泉

三番目は今日の日記で取り上げた三斗小屋温泉。大黒屋と煙草屋の2軒の旅館がありますが、露天風呂があるのは、煙草屋のみ。外来入浴はできません。旅館といっても限りなく山小屋に近いですから料理やサービスを期待してはいけません。

4)白馬鑓温泉

標高2000mの日本でも有数の高所にある温泉。猿倉から徒歩4時間標高差800m。ここは、温泉に行くというよりも、白馬岳登山の途中にたまたま温泉付の山小屋があった。そういう感覚で捉えるべきでしょう。雲海の上の露天風呂ですから、それはもう気持ちいいことこの上ありません。でも、せっかくいい気持ちになっても下山するまでに汗まみれになってしまうのが欠点と言えば欠点。山小屋にしては食事がおいしいのもマル。営業は夏期のみ(6月上〜10月下)。

5)屋久島平内海中温泉

カムイワッカが川の中の露天風呂の代表なら、こちらは海の中の露天風呂の代表かもしれません。交通機関を使って辿り着けるので、秘湯といっても秘境ではありませんが、屋久島の中でも空港から最も遠いところにあるので、交通不便な僻地であることは間違いないでしょう。岩場に岩を並べて湯船を作っているだけなので、脱衣所などは当然ないところが女性には辛いところです(10年前の話)が、波をかぶるワイルドさは最高。台風の時なんかは特におすすめです(笑)。

岩の上に服や靴を脱ぎ捨て幸せな気分でお湯に浸っていたら、いつの間にか潮が満ちてきて洋服が波の上にプカリプカリ。仕方がないのでたまたま一緒になった人に服を借りたという苦い(楽しい?)想い出もあります。また是非行きたいトコロです。

2002/10/20(日):森羅万象

 今週、身近に起こった出来事で最も嬉しかった“事件”は、自分のことではなく、MAYUMAYUこと西村真友美さんが、Tokyo Designers Block 2002のAward(グランプリ)を取ったことでしょう。世界各国から集まった数百人のアーティスト&デザイナーの中での“一番”に選ばれたのです。というと「そんな大げさなものじゃない」と彼女に言われてしまいそうですが、とにかくオメデタイことには違いありません。

 知り合いだから嬉しいということはもちろんあるのですが、それと同じくらい、まっとうなものがまっとうに評価されたということが、嬉しかったのです。アートやデザインの世界も建築と同じく、面白げなものはたくさんありますが、心に訴えかけてくるものはそう多くはありません。ここでもやはり“表現”というのが差異をプレゼンテーションする“手段”となっているからです。面白いか面白くないかギリギリのところで勝負しているような作品もまた多いです。そういう感性を受け入れられる人は“IN”受け入れらない人は“OUT”。そのように仕組まれた作品をダメとはいいませんが、アーティストの提示するそんなゲームにいちいちつき合っていられるかよというのが、受け手側としての本音です。

 彼女の作品はそのような現代アートにありがちな、人を突き放しにかかる感覚とは無縁のものです。どちらかというと手元に握りしめて置きたくなるような、人にそっと寄り添うような暖かみのあるものです。といっても、決して通俗的な価値観に媚びたものではありません。全ての作品はご本人の手づくりという超非効率な!?制作手法によって生み出されたものですが、「手づくりで作りました」ということが前面に出てくるような手づくり讃歌の作品でもありません。むしろ手づくりというのは、彼女の気持ちを伝える声のトーンのようなものと捉えた方がいいような気がしています。

 そのようなスタンスを彼女がとっているのは、もちろんそういう伝え方が「好き」であることが前提であるとは思いますが、現代アートが陥っているある種の貧困な状況に対する批評的なメッセージであると私は理解しています。彼女のフィールドが機能のない純粋な表現物としての“アート”と実用性を有する“デザイン”の境界に位置しているのも、表現が皮相的なものとして「より遠くへ」向かうのではなく、人との関わりの中で「より深く」あって欲しいという願いから来るものなのでしょう(*)。

 受賞作の“森羅万象”はクラゲのような傘のような細長い円錐形をしたテキスタイルアートです。イデーパシフィックの吹抜の空間に一本一本すべて表情が異なる9本のテキスタイルのオブジェがつるされていましたが、ふわふわとした浮遊感と静かな存在感のバランスが実に良い素晴らしいものでした。

 以前、西村さんからいただいたメールの中に次のようなフレーズがありました。

「自分の実感、心の底からあふれでる気持ち、そういうのがあるので作りたくなるし、必然。つくりものの気持ちではほんとは何も生み出せない・・・。ウソはバレルみたいです。」

ほんとですね。でも、それを実践するのは根気がいるし大変なことだと思います。それをやりきった人だけが良いものを作れるのですね。自分にとってもものすごく刺激になった今回の出来事でした。

 

P.S.:西村さんに関する話題は2002/03/23(土)の日記“SPIRAL、SPUTNIKそしてLOMO”でも触れてます。

注(*):私は、以前アートとデザインは区別されるべきと述べたことがありますが、それは絵画と建築が全く同じであるというような短絡的な見方を戒めるためであって、アートとデザインはそもそも別物であるというようなことを言いたいわけではありません。あらゆる状況は連続的であって、違いを区別するということが主眼となる場合もあるし、同じように扱う方がいい場面もあります。単にそれだけの話です。

2002/10/15(火):「YKK10人展」について考えたこと

 10月10日から開催中のYKK AP OZONE「10人展」の出品作について、ちょっとばかり補足しておこうと思います。

 今回の場合、ショールームの基本コンセプトである「ライフスタイルと窓」に応えるということが課題として示されました。

 まず考えたのは、窓という造形言語自体に焦点を当てるのではなく、生活の中における開口部ないしは窓の意味というのを浮かび上がらせたいということです。“造形”優先で考え、それに生活を当てはめるのではなく、あくまで生活の様相を“かたち”に置き換えようとしたのです。

 ここでの設計はあくまでモデル設計であり、実在するものの設計ではありません。敷地もあくまで抽象的なものです。プロトタイプと言い換えてもいいかもしれません。プロトタイプと実在の設計とは共通点もありますが違いもあります。現実の設計では、敷地や生活者の“くせ”を読み込むことが重要な課題となりますが、プロトタイプは基本的に考え方を“かたち”にするものです(*)。

 従って、まずは、多少単調になったとしても、本質的なことがらだけで空間を構成しようと考えました。単純な空間の分割だけで空間を表現しようとしたのです。木を植えたり、アールやナナメの形状を使うことなども一応は考えたのですが、意味の上であまり重要性を持たない造形は今回はなしで行こうと決めました。できるだけ一般的に流通している形態言語を使い、表面的な「かたち」に目を奪われないようにするというのも意識的にやっていることです。

 今回の提案の核心は、空間を分割することが逆に空間を広く見せることにつながっているという点です。中庭を取るなんてことは極めて常識的な解答ですが、取り方ひとつでも意味は全然違ってくる。そういうことを言いたかったのです。さらに重要なことは、シチュエーションの違いによっても、違う意味や働きが生まれるということです。出来たのは単なる“ハコ”ですが、その単なる“ハコ”がいろんな意味を持てればいいなと考えたわけです。

 自分の案を冷静に見てみると、印象としては結構大雑把ですね(笑)。よく言えばおおらか。悪く言えば淡泊。そんな感じでしょうか。他の方の提案と比べても、すっきりしすぎるくらいすっきりしているように思います。空間の捉え方も自分の案が最も大づかみであることは間違いありません。でも、モデルなんだから今回のはそれでいいと考えています。これをどこかの敷地にそのまま建てることはもちろん可能ですが、具体的な敷地に建てる場合は必ず何かが違って来るはずです。現実の敷地に存在するデリケートな文脈というのはここには何ら反映されておりません。敷地や施主を獲得してこのモデルが世に出ることがあれば、その時初めて具体的な様々な要件を反映し、ある種の“味”が生まれていくのではと考えています。

 与えられた時間が3週間弱しかなかったので、特に表現の面では心残りもあります。昼と夜とで見え方が逆転したり、ガラスに空が反射したり、本当はそのようなシーンも表現したかったのですが、時間切れで力つきてしまいました(笑)。申し訳ありませんが、その辺は想像力で補ってください。

 設計に携わる身としては、現実の設計だけでなく、たまにはこのようなものにもトライする必要がありますね。惜しむらくはもう少し時間が頂きたかったところですが、とにもかくにもこのような機会を与えてくださったYKK、並びに関係者の皆さんに感謝の意を表したいと思います。

 

注(*):しかし、だからといってプロトタイプが「抽象的」であっていいというわけではありません。観念から演繹して空間を作るのではなく、あくまで帰納的に実在することがらから空間をすくい上げなくてはならないのです。

2002/10/09(水):物欲の消えた秋

 だいぶ涼しくなり、いよいよ秋本番です。株価も20年前の水準に戻ってしまったことだし、ここでいっちょ、食欲だけでなく物欲も刺激して景気回復にでも努めることにしましょうか。

 と思って街に繰り出してみましたが、最近どーも、物欲が沸かないのです。何を見てもあまり買う気が起こらない。もともとモノには興味は大ありなのですが、自分のものにしたいという欲望に結びついてこない。どうやら「物欲欠乏症」という重い病気にかかってしまったようです(*)。

 テレビはあまり見ないから大画面テレビは特に欲しくない。第一あんなでかいものインテリアに置きたくない。オーディオ・AV関係は既に一通り持ってしまっている。DVDレコーダーにはちょっと惹かれるけど、現状のものは暫定的な規格だし、ビデオデッキで当面は事足りてしまう。第一録画するものがそんなにない。カメラもデジカメもパソコンも既に持ってしまっている。電子レンジは便利だけど、キッチンが狭くなるから持ちたくない。電気ポットやもろもろの調理器具もおんなじ。以前は車も持っていたけれど、車は東京じゃ持っていても煩わしいだけだから既に手放してしまった。バイクは歩道や公園の中を走れないし、一方通行の逆進もできないから必要ない。自転車はとりあえず持ってるし、高い自転車を買っても盗まれるだけだから必要ない。ケータイなんて2台あっても全く意味がない。

 腕時計とかは?メカ好きなのでもともと時計は大好きなんだけど、最近はそもそも腕時計をするのを止めてしまった。だってケータイに時計、ついてるでしょ。ケータイの時計は時刻も狂わないし、カレンダーも付いているから本家の時計よりも便利なのだ。腕時計をはずしてみて、あんなものを四六時中はめていること自体そもそも間違いだったと気がついた。

 要するに道具という道具はほとんど全てこと足りてしまっている。

 じゃあ、洋服なんかはどうだ。モードの世界の本質はいうまでもなく、機能や必要性にあるのではない。俺だってたまにはデパートやブティックくらいは覗く。気に入ったものがあっても、衝動買いはしない。一週間経ってもやっぱり欲しければ買うことにしている。でも、大抵、一週間経つと先週それを見たことすら既に忘れている。服なんて買ってはみても、結局は着心地の良いものばかりに偏ってしまう。シャツだけはある程度たくさん持つ必要はありますが・・・。靴もおんなじ。何足あっても結局は履き心地の良い2、3足しかはかなくなってしまうからそう多くは必要ない。時計も道具ではなく装身具として考えればいいのだけれど、使わないことがわかっているものに投資をする気はやっぱり起こらない。そんな金あったら海外旅行にでも行った方がましだと思うとやっぱりいらないと思ってしまうのです。

 建築が商売なので“家”は欲しくないことはないのですが、現状では人様の家のことを考えるので手一杯。家族もいないので今は特に欲しくはない。私一人だったらテントで十分(笑)。結局、今欲しいのは観葉植物と若干のCDソフトと座り心地の良い椅子くらいという全くささやかな欲求のみ。そんなんじゃとてもとても景気の刺激にはなりそうもありません。

 世の中には物欲旺盛な方というのもたくさんいらっしゃいますが、自分の廻りを見ても「物欲欠乏症」の人が増えているように思います。モノに憧れて育った上の世代とは違って、僕らが育ったのは高度成長期のまっただ中。親の暮らしを眺めてきて、モノが生活を決して豊かにはしないということをいやというほど味わってきたので、もうモノなんていらないと思っている人が結構多いのです。モノ離れというのはどうも確実に進んでいるようです。

 本当に欲しいのはモノではなく、「モノと生活との豊かな関係」なのです。“ライフスタイル”を手に入れるっていうのとも違います。「“ライフスタイル”を手に入れる」というのは、「モノを買う」のと本質的には同じですからね。自分なりの生活イメージを構築し、それにどうしても必要なモノだけをはめ込みたいのですが、そのように考えられたモノは「極端に」少ないので、結局は何にもいらないという結論になってしまうのです。

 私のような人間が増え続ける限り、既製品をパッケージングするというこれまでの商売のやり方は辛くなる一方でしょうね。もちろん、そのようなやり方がすぐに下火になるものではないこともまた確かです。でも、そのようにして生き延びられるのはおそらく一部のブランド品だけでしょう。では、どうすれば良いのか?私自身ももちろんそれを模索し続けています。答えに到達したとはまだ言い切れませんが、ある程度の手応えは既に感じ始めています。

 

注(*):もちろん「物欲欠乏症」が病気なんではないですね。むしろ「物欲依存症」の方が病気だといえるのかもしれません。

2002/10/01(火):イチロー台風接近中

 台風21号が首都圏に接近しています。現在午後7時。今のところは雨風はそれほどでもありませんが、これから急激に雨風が強まるとのこと。今日は外出せず家でおとなしくしていた方がいいかもしれません。

 それにしても、関東直撃は今年で3つ目。去年もたぶん3つぐらいやってきたし、ちょっと多すぎなんじゃないでしょうか。本来、台風は西日本が本場。台風銀座と言えば、足摺岬、室戸岬、潮岬と相場は決まっています。でも最近はすっかり様変わりしたようです。なんでこう毎回毎回右の方にずれてきてしまうんでしょうか。まるで平松のカミソリシュートのよう(*)。切れ味抜群。これも気候変動の影響なんでしょうか。

 昔は大きい台風にはニックネームがつけられていたようですが、最近は番号だけ。それじゃあ、あまりにも味気ないので私が命名することにしました。今回の台風は強くて速いということですから、さしずめ

「イチロー台風」

でしょうか(笑)。今から気象庁に電話してみますかね。

 それにしても5時に仕事を切り上げるなんてホント久しぶりです。なにしろふだんは7時よりも早く帰ることなんてありませんから。家でのんびりビールを飲むって言うのがこんなにも気持ちいいことなんて。そんなことに喜びを感じるなんて明らかに働きすぎですね。これを機会に生活の改善もした方がいいのかもしれません。

 

注(*):シュートと言ってもサッカーの話じゃないですよ。野球の話です。平松っていうのは元大洋(現ベイスターズ)の平松投手のこと。インコースに鋭く曲がるシュートがカミソリシュートと呼ばれていたんです。古い話でスミマセン。

2002/09/24(火):建築ブームの舞台裏・・・空間というスタイルの消費

 カーサ・ブルータス10月号「何たって建築家」。建築家が「今、世界で一番おしゃれな職業!?」。えっ、そうだったの。「!?」が付いているからまだいいものの、これをマジに受け取っちゃったらちょっとヤバイかもしれません。今や本屋の店頭には建築および建築家に関する情報がびっしり。なるほど世の中、建築ブームみたいです。

 建築関係の雑誌だけにとどまらず、普通の雑誌の中でも“建築”が取り上げられる機会は随分増えました。これって喜ぶべきことなんでしょうか?空間に対しての関心が増すのは大いに結構。でも、いろんな雑誌を見ていると、どうも「空間というスタイルの消費」にしか見えなくもありません。雑誌という2次元の媒体に投影された3次元の「空間スタイル」。そのカタログ的な見本市。それが証拠に、それらの雑誌を見ていると、広告と本編の区別がほとんどつきません。全てが広告のような様相を呈しているのです。もちろん雑誌側としては区別する必要なんてないでしょう。キレイに構成されてさらに売れ行きが良ければ鬼に金棒。まさにメディア文化、広告文化全盛という感じです。

 これだけいろんな雑誌が出てくると、商品としての“かたち”の供給が追いつかなくなってきます。ご存じのように建築というのは作るのに非常に時間がかかります。さらに“かたち”にはそれが成り立っている意味というものがまとわりついていますから、それをそう簡単にはずすわけにいきません。メディア的に考えると建築空間の“かたち”は常に供給不足になる宿命を持っているのです。

 柱は垂直に立つのが合理的。屋根はナナメに架けるのが合理的。その枠組みをはずしたい。それはクリエイターとして当然の態度です。でも、長年に渡ってものごとが成立している意味を再構成することは実は大変なことです。それを変えるのは単に創造力だけでなく、様々な面からの検討の積み重ねも必要となるのです。その大きなハードルを超えてこそ真の“創造”があると言えるのではないでしょうか。

 ある建築家は厚底靴になぞらえて、また、ある建築家は日本の道路事情でランボルギーニに乗る人もいるということを肯定的にとらえ、建築ももっと自由度を持つべきという主張をしています。いずれもある価値だけを突出させて新しい“かたち”を生み出そうという態度です。しかし、彼らは、建築が靴や車のように簡単に取り替えがきくものではなく、ひとつのものを何十年も使い続けなくてはならないという事実を見落としています。厚底靴だけしか持っていない人はまずいないでしょう。ランボルギーニを持つような人は車の2台や3台は持っていることでしょう。そう、建築は飽きたらすぐに取り替えがきくものではないのです。

 厚底靴の建築家は同時に秋葉原や渋谷のような消費都市をも賛美しています。建築がついに他のメディアに追いついたと・・・。しかし、考えても見てください。秋葉原や渋谷は日本のみならず世界でも最も消費密度が高い街です。そんな特異な街を取り上げて、都市一般、建築一般を語られてはたまったもんではありません。普通の都市や建築は2年ごとに全取っ替えできるものではありません。特異点を見つけてそれを短絡的に拡大する。ここにも建築家にありがちな性向が見て取れるのです。彼らにとって“都市”は単に自分のデザインを成り立たせるためのデザインソースにしか過ぎません。

 建築がモードやアートと共通項を持ってもいい場面というのはあります。しかし、上に述べたような違いというのも当然あるわけです。今の時代の最大の欠陥は情報の洪水の中、差異の形成ばかりに心奪われて、「自分たちがどこにいて何をやっているのか」ということが全く分からなくなっていることにあるのです。サッカーでもそうですが“ポジショニング”というのは非常に重要です。それがわからなくて、現代の作家を名乗る資格はない、そのように断言しても良いのではないでしょうか。

 今や建築家のほとんどはコンサバ(*)恐怖症にかかっています。他人と同じものをつくったら負け。だから関心事はいかに突出した「造形」をするか、それしかありません。資本主義においては、いかに他人と違う「差異」を提出するか。それが全てだからです。

 私も職業柄、竣工した建築は努めて訪ねてみるようにしています。最近思うのは、現実に建てられたものが、メディアで取り上げられている写真などから読みとれる魅力を超えることがほとんどないということです。同じレベルで感じられればまだいい方、実物はこんなひどかったのとガクゼンとすることもしばしばです(4月1日の日記4月13日の日記、参照)。実在するもののリアリティーというものが急速に失われ、人々の行動の後、全てがガラクタのように積み上がっているということを痛切に感じます。

 消費文化というのはイナゴの大群のようなものです。ワーッとたかってきて、イネを食いつぶし食べるものが無くなると他へ移動する。そして、さんざん作物を食いつぶした挙げ句、絶滅するのです。絶滅したいやつは勝手に絶滅すれば良いと思いますが、巻き添えだけはゴメンです。長く生存したいのなら、ブームに踊らされることなく、メディアも専門家も消費者もせめてもう少し大人になる必要があるのではないでしょうか。

 

注(*):コンサーバティブ(conservative=保守的)。既存の枠から抜け出れない人たち(あるいは傾向)をクリエーター業界ではコンサバと呼び慣わして揶揄しています。

2002/09/10(火):締切に追われ・・・

 10日ぶりの日記になってしまいましたが、実はここ一週間、締切に追われていました。あるメーカーのショールームがこの度リニューアルされるのですが、その一角に若手建築家展のコーナーが設けられることになり、そこに出すものを設計していたのです。設計といっても実在のものではなく、早い話がアーバンライフに対する建築的な提案をせよというものです。

 「形態操作」に心奪われるのではなく、アーバンライフの「意味」というものを単純かつ普遍性のある形態に置き換える。パッと見の美しさもありつつ、空間に対する想像力を高めれば高めるほどいろんなものが見えてくる。そのようなものになるよう腐心したつもりです。限られた時間ではありましたが、自分らしさはどうにか出せたのではないかと思っています。あとは、皆さんの評価を待つばかりですね。

 展示期間は10月上旬から2ヶ月ほどですが、詳細は決まり次第、お知らせ致します。内容についてはこのHPでも紹介していくつもりです。乞うご期待!

2002/09/01(日):0.05の“メジャーバージョンアップ”

 MacOS 10.2(コードネームJaguar)が発売されました。150以上の新機能が追加された“メジャーバージョンアップ”。内部的な安定性も随分と高まっているんだそうです。しかし、それはメーカー側の言い分。コードネームに準じ、ヒョウ柄のパッケージングを前面に押し出したプロモーションは見事というしかありません。でも、ユーザーにとって一体何がそんなに「大きく変わった」のでしょうか。

 いうまでもなく、パソコンを使おうとするとき、ユーザーはOSを使うのではありません。あくまで使うのはアプリケーションソフト。OSはそのための土台にしか過ぎません。もちろん、OSは重要です。また、OSの進歩がユーザーに利益をもたらすことも事実です。でも、だからこそ煩雑なバージョンアップは困るのです。実は、私はOS10.1.5をつい2、3ヶ月前に買ったばかり。でも、たった0.05の違いなのに、改めて買い直さないとOS 10.2にはできないのです。「安定性が高まった」というセリフはよく使われますが、 どちらかというと「欠陥を修正した」と言うべきではないでしょうか。「欠陥を修正した」新バージョンを手に入れるために、正規の値段を払っていらない新機能まで抱き合わせで買わなくてはならない。それは明らかに理不尽です。

 このような戦略はなにもアップルだけではありません。メジャーソフトのほとんどはもはや機能の飽和状態に達しているのにもかかわらず、おきまりのように1年毎にバージョンアップがなされます。必要もない数々の新機能と共に、重くて、新しいバグを背負った“新バージョン”が提供されるのです。既存ユーザーに対しては多くの場合、“優待バージョンアップ”という特典?が示されますが、ほとんどの場合期間限定で、ぼやぼやしているとサービス自体受けられなくなってしまいます。それを逃すと新たにソフトを買い直さなくてはならないので、多くのユーザーはバージョンアップにつき合っていることでしょう。私も同じです。

 でも、たくさん使っているソフトを一年ごとに全て更新し、新機能や使い勝手の変化に適応するなんてことは到底出来ません。OSとの相性の問題もあるし、そんなことをまともにやっていたら、年がら年中コンピューター自体のメンテナンスに忙殺されてしまいます(現にそうなっています)。多くのソフトはもはやバージョンが上がることによって使いやすく便利にはなってはいないのです。部分的に便利になっていたとしても、機能の肥大化で重くなり、トータル的には古いバージョンの方が便利というのも良くあること。それに、新しいソフトは、新しいバグや既存のシステムとの相性の悪さを抱え込んでいることが多いので、現実問題として使えないことも多いのです。

 私の場合、OS ?は持っているものの、実際に使っているのは、9.2.2です。まだ、全てのソフトがXに対応しているわけではないので、当然?にはできません。Microsoft Office(Mac版)はひとつ前の2001を持っていますが、実際に使っているのはさらにひとつ前の98です。新バージョンのインターフェイスがなじめないので、わざわざ古いバージョンを使っているのです。Freehand(Macromedeia)も同様です。ATOKなんてもっとひどくて、14を入れたら、「建物」という文字を入力すると必ずフリーズしてしまうので、結局、インストールした14を全て削除し、13に戻して使っています。これはバグなのかどうかはわかりませんが、とにかく、建築の仕事をしていて「建物」という文字の入力が出来ないのでは仕事にならないのです。そのようなソフトの“仕様”のために古いソフトを使い続けていると、バージョンアップのタイミングを逃し、そのうちサポートもうち切られてしまうという悲劇が起こります。

 メーカーに文句は言えません。なぜなら全てのソフトには「このソフトで生じたどんなトラブルにも責任は負いません。イヤなら使わないでください。」という例の但し書きがついているからです。コンピューターの技術的問題からそうせざるを得ないというのはわかります。商売のためには無理矢理にでもバージョンアップせざるを得ないという事情もわかります。でも、パソコンがごくごく普通の道具となりつつあるのに、こんなこと一体いつまで続けるつもりなんでしょうか?

 進歩自体は大歓迎です。でもそれは小手先のものであってはならないはずです。OS X自体は大幅な進歩と言えるでしょう。だけど、その改良版を出すなら、OSは“土台”なのですから、小刻みにバージョンを上げるのではなく、少しくらい待たせても2、3年は変えなくてもいいくらいのものを出すべきなんではないでしょうか。

 アプリケーションソフトもOS Xに対応させるという大目標をクリアしてしまうと、既存の路線の延長ではおそらくやることがなくなってしまうでしょう。重要なのはもはやソフト単体の機能的な革新ではなく、パソコントータルの環境における利便性の向上と煩雑さの解消にあることは間違いありません。でも、なわばり争いに勝ち、シェアを獲得するために、どのソフトハウスも自分自身のソフトの独自性と機能拡張につとめます。従って、ソフト間の機能的な重複がひどく、一体どのソフトを使うべきなのかという悩ましい問題が常に発生しています。そのような状態がパソコン自体をひどく使いにくいものにしているのです。ソフトハウスがお互いの殻に閉じこもっている限り、自分たちの首を占め、ソフトウエア業界全体が衰退化への道をたどってゆくことになるのではないでしょうか。

 私の場合、Exelは使いますが、もはやWordなんてほとんど使いません。機能満載で訳が分からないし、重厚長大で動作はとろいし、メモリーは消費するし、Wordの多機能が必要になる場面なんてほとんどないからです。見栄えのするペーパーを作るときには最初からグラフィックソフトを使うし、ホームページの作成ならHTML作成ソフトを使うし、文章だけだったら、エディターを使います。軽快に動作するエディターを常用するようになってからは、コンピューターがフリーズすることもほとんどなく、実に快適です。

 ソフトのコンポーネント化を目指したOpenDocのプロジェクトが頓挫して以来、ソフトの重厚長大化を防ぐ手だてはもはやなくなったようにも思えます。このあたりで、各ソフトハウスが結集して、原点に立ち戻った新しい枠組みをもう一度考え直すべきなんではないでしょうか。

2002/08/24(土):麻布十番納涼まつり

 昨日、麻布十番納涼まつりに行ってきました。とにかくすごい人。最初は雨が降っていたため、それほどでもなかったんですが、7時をまわるころにはかなりの人でごった返していました。“まつり”といっても伝統的なものではなく、商店街が街おこしのために始めたものなので、歴史の重みというのは感じられませんが、それでも一商店街がこれだけのことをやるのは大したもんだと思います。ここの商店街は納涼まつり以外にもいろいろとやっているようですし、かなり頑張っていますね。

 “まつり”の中心は出店。目抜き通りに露天がずらっと並ぶんです。まあ、売っているものは大したもんではないですが、基本的に雰囲気ですよねこういうのは。来てる人もほとんどが若い人でさすが東京だなあと思ってしまいました。

とにかくすごい人

売っているのは串焼きとか
まあそんなもの

お化け屋敷もあるでよ

 ぶらついて適当に買い食いしながら、お化け屋敷へ行き(入りませんでしたが)、国際バザールへ寄りました。この国際バザールっていうのがまた凄いんです。各国料理の屋台が出て、バンド演奏なんかがされているんですが、場所がなんと首都高速一ノ橋ICの真下。首都高までバーベキューの煙が漂っちゃったりしてるんですが、運転している人はまさか真下でこんなことになっているなんて思いもよらないでしょうね。空間的に全く無関係なものが重なり合っていて別々のことが行われている。それだけ考えてもやっぱり東京というところはもの凄いところです。

 喧噪と屋台の食い物に飽きたので、口直しに魚料理の「魚可津」へ寄りました。内装が安風情なのが玉に瑕ですが、東京でこの値段でこの味ならば、上出来なんではないでしょうか。

 10時までねばって外へ出ると、冷たい雨の中、ほとんどの露天がきれいさっぱりと片づけられていました。まつりの期間中ずっと設置されているのかと思いきや、毎日9時になるといったん全て片づけられてしまうのですね。道路占有の問題はあるのでしょうが、“まつり”なんだから、夜どうしやるぐらいのことがあってもいいように思いますが、それがなんかちょっぴり寂しさを醸し出していました。

2002/08/22(木):面白くてもったいない技術

 OMソーラーのガイダンスに行ってきました。OMソーラーというのは、太陽熱を利用した空気集熱式のパッシブソーラー技術です。といっても素人の人にはピンとこないでしょうが、要は屋根面で温められた空気を床下に送り込み暖房に使いましょうという省エネ技術です。なぜOMという呼び名がついているかというと、面白いの<O>もったいないの<M>だということになっていますが、もちろんこれは語呂合わせで開発者の奥村昭雄氏の名前からとったものです。

 OMソーラーというのは、他のソーラー技術が設備的な解決であるのに対し、建築的な解決であるということに特徴があります。空気を使うというところがミソなのです。空気を動かすことで暖房とともに換気も同時に果たしてしまうのです。室内換気だけでなく、小屋裏、床下の換気も果たせるので建築の長寿命化にもつながります。ですから、単なる省エネ技術ではなく、広い意味でのエコロジー技術と捉えるべきで、大変優れた考え方だと思います。ただ、空気を使うということには難しさもあります。空気は漏れるし、すぐに冷やされてしまうからです。乾燥の問題、結露の問題、ほこりなどの問題などについても十分に考慮する必要があります。

 OMソーラーについては、もうすでに1万棟以上の実績があり、HPも充実している(OM研究所OMソーラー協会)ので、OM予備軍の私のような若輩が特段コメントすることもないのですが、もちろん、私は私なりにこの技術をどう取り込むかということについての思いはあります。それは、建築の構造美との両立を図るということです。私は、木造建築についてはもちろん、鉄骨造やRC造においても、構造をなるべく露出したいと考えています。そうなると当然問題になるのは、ダクトの取り回しです。もちろん、そのまま見せて良しとする考え方もあるのですが、そのまま見えていて美しいものであれば、別に悩むこともありません。木造であればなおさらです。木組みを見せたまま、ダクトをうまく納める。しかも、建築的に無理なことをせずに、OMにとっても合理的。それについては、実は秘策があるのです。といってもそれほど威張るものでもなく、ちょっとした発想の転換、ちょっとした工夫という程度のものですが・・・。

 これから手がけるもので実現できるかどうかはわかりませんが、どっちにしても近いうちにはやってみたいと考えています。

2002/08/20(火):自然欠乏症

 台風が通り過ぎ、ようやく日差しが戻ってきましたが、つい数日前までの暑さとは明らかに違う秋の空気。カラットして、夜は気温も下がり、だいぶ過ごしやすくなりました。クーラーなしで過ごせる夜なんてほんと久しぶりですね。耳を澄ませば聞こえてくるのは秋の虫。あれほど鳴きわめいていたセミもパッタリと静かになりました。台風と共にセミも力つきてしまったんでしょうか。

 都心に住んでるとどうしても季節感というものには鈍感になってしまいます。庭もないようなところで窓を閉め切って過ごしていればそれも当然。やっぱり、少しでも自然を感じるところがいいですね。数年前までは井の頭公園のすぐそばに住んでいたので良かったんですが、最近はちょっぴり“自然欠乏症”。久しく旅行にも行っていないのでなおさらです。事務所から新宿御苑なんてすぐなんですが、200円払ってわざわざという感覚にはなかなかならないんです。やはり、自然っていうのは空気と同じように、気がつけばそこにある、そういうものでなくてはならないようです。

2002/08/12(月):夏休みの暇作業

 夏休み、いかがお過ごしでしょうか?私も、お盆休みくらいどこか旅行にでも・・・と一応は考えたのですが、暑いし、どこも混んでると思うと、考えただけでうんざり。結局、都心でおとなしく過ごすことにしました。でも、遠出しないと、そこは自由業の悲しい性。どうしても足が事務所の方に向いてしまいます。結局、夏休みも純粋な遊びというよりも、HPの更新とかパソコンのリニューアルとかそんなことになってしまいそうです。

 パソコンもこういうときに、いろいろと手を入れたくなるものです。まずは、手始めにスピーカーを買いました。ハーマン・カードン(harman/kardon)社製のサウンドスティック(SoundSticks)という製品なのですが、これが期待以上の優れもの。デザイン、音とも申し分なし。これで2万円なんて信じられない思いです。もともとオーディオにはうるさいタチなので、実はパソコンオーディオなんかには全く期待はしていなかったのです。パソコン用スピーカーから出る音なんてちゃんちゃら可笑しくて話にならなねえや、そう思っていました。iTunes(Macに付属のMP3再生ソフト)も、付属のスピーカーじゃ音もちゃちなので、本格的には使っていませんでした。でも、2万円のこの製品をパソコンにつないでみて、びっくり。音はクリアだし、低音は出るし、音場感もあるし、効果は想像以上。おまけに小さいし、デザインも美しい。サウンドスティックという名のごとく、メインのスピーカーは1インチ(2.5cm)のユニットを縦に4連に並べたユニークなもので、場所を取らないし、スケルトン仕様のデザインもMacにピッタリ。クラゲを思わせるスーパーウーファー(重低音を担当するスピーカーユニット)がまたユニークでメインユニット+スーパーウーファーの組み合わせで外観からは想像できないような素晴らしい音が出るのです(*)。スーパーウーファーはそれ自体でも様になる秀逸なデザインなのですが、じゃまなので、ちょっと勿体ないですが、机の下に置くことにしました。

 いろんな音楽を聞いてみて、う〜んとうなってしまいました。はっきり言って、これならミニコンポは不要かもしれません。オーディオに詳しい方ならおわかりだと思いますが、今までのオーディオの世界では2万円のスピーカーなんてどちらかというと“おもちゃ”のレベルです。ミニコンポでも音質にうるさい製品を選べばワンセットで10数万円はするでしょう。ところが、どう考えても自分が今聞いている音はそのような高級ミニコンポに匹敵する音なのです。しかも投資額はたったの2万円。アンプも不要。スピーカーの接続もUSBにつなぐだけ。CDを入れれば、ボタンひとつでMP3ファイルに変換してくれ、しかも曲のリストまで全部自動で作ってくれる。CDを交換する手間すら不要。DVDも再生できるし、まさにいいことずくめ。もちろん、音的には単品のオーディオコンポにかなうとはまでは言いません。でも、パソコンさえあればもはやミニコンポの出る幕はないような気がします。

 結局、一日がかりで手持ちのCDを手当たり次第パソコンにぶち込んでみました。アルバム毎、アーティスト毎、あるいは曲名をアルファベット順に再生したり、ランダムに再生したり、エフェクトをかけたり、それこそあらゆることが可能です。デジタルならではの情報の加工の自由度と音質の劣化のなさがもたらす強大なメリット。パソコンで“ファイル”の形で利用して初めてデジタルの良さが最大限に生かされるということを改めて感じました。レコードがCDに置き換わっただけでは真のデジタル革命とは言えないと思います。“アナログ”の敗北の時がまさに刻一刻と近づいています。音楽が写真やイラストや文章と同じように“ファイル”となってパソコンの中に存在する。当たり前のことと言えばそれまでですが、世界中の音楽がアルファベット順にずらっと並んでいる様を見ていると、えらいことになったなあと、しばし感慨にふけっておりました。

 

注(*):音というものは周波数が下がるほど指向性が弱くなるという特性があります。言い換えれば、低音はどこから聞こえてくるかわかりにくいということ。この性質を利用したのが、ミニスピーカー+スーパーウーファーというシステム。メインスピーカーは中高音に特化させることで小型化をはかり、低音担当のスーパーウーファーはどこに置いても良い。従って、場所をとらず、設置の自由度が増すのです。考え方自体は古くからあり、製品もボーズなどいくつもあったのですが、これだけデザイン的にもユニークなものはかつてなかったように思います。Mac専用(OS9.0.4以上必須)ということになっているので、たぶんWinでは使えないと思いますが、最近の超おすすめ、一押し製品です。

P.S.:店頭で試聴したってダメですよ。パソコンショップはノイズの巣窟。店で聞く音と家で聞く音では雲泥の差です。

2002/08/01(木):もうどうにもならない熱地獄

 暑い。とにかく暑い。これだけ暑いと外に出る気も起こらない。食事も近場で済ませたくなるし、家から駅、駅から事務所のほんのわずかな距離の移動さえおっくうだ。今日の最高気温は35度。でも体感温度はそんなもんじゃない。たぶん、寒暖計のデータだけだったら、熊谷のような内陸の街の方が暑いだろうし、京都や大阪など西日本の街の方がもっと暑いかもしれない。でも、東京にいると単に数字の問題じゃない暑さを感じるのだ。

 昼はとにかくアスファルトの照り返しがすごい。それと例の室外機、クーリングタワーのたぐい。暑くなればなるほど中はガンガン冷やすから、その分の熱をご丁寧に全部外に出してきてくれる。当然それは外気温に跳ね返る。そうすると、中を冷やすエネルギーはさらに多く必要になるという悪循環。しかも、ビルの谷間にいるとなにしろ風が吹いてこない。海際で風が吹いていても代々木あたりではだいぶ弱まってしまう。あっちがびゅーびゅー吹いているくらいでこっちはちょうどいい。あっちがそよ風だとこっちは完全な凪(なぎ)状態である。だから、吐き出された熱は行き場を失ってビルのすきまに淀んでいる。

 昼の暑さもたまらないけれど、夜は夜でこれがまたたまらない。ふつう、夜は海風も吹いて、気温も下がるもんだけど、この街に限ってその法則は通用しないようなのだ。なにしろ、東京中のコンクリートの塊が昼のあいだじゅう、たっぷりと熱を吸い込んで夜になるとそれをじわじわっと吐き出してくるのだから。夜の過ごしやすさは実家のある大船あたりと比べてもだいぶ感覚が異なっている。向こうは昼は暑くても夜になると気温も下がり、風も吹くので過ごしやすい。風が強い日は肌寒いぐらいだ。でも、都心だと夜でもなま暖かい空気がべったりと皮膚にまとわりついたままである。

 東京というのは、街全体がいわば完全な“熱溜まり”状態となっている。ヒートアイランドとは良く名づけたものだ。これだけ街全体がコンクリートで固められてしまうと、水分の蒸散作用による気温の調節作用が全くといっていいほど機能しない。植物は地面に蓄えられている水を吸い上げ、蒸散作用によって自らの生命を維持するだけでなく、周囲の湿度、温度の維持にも寄与している。水田の存在も大きい。田圃っていうのは、単にコメを生産する場所ではない。洪水の受け皿にもなれば、気候の調節作用も果たしているのだ。だから、単純に水田をなくしてコメはどこか他の場所から持ってくれば済むという話ではない。

 そういえば、東京では最近は霧というものにほとんど出くわさなくなった。自分が子供の頃は違った。自分が生まれ育ったのは松戸だけど、霧がかかるのはしょっちゅうだった。統計的にも霧の出現回数というのは激減しているそうだ。霧がなくなったのは、もちろん、地面からの水分の供給が減ったせいである。代わって増えているのが、雷雨。雷の回数は明らかに増えている。今日当たりも案の定ゴロピカが始まった。でも、それくらいじゃないとこの熱はとても冷やせないだろう。

 ところで、今日、8月1日は省エネの日なんだそうである。省エネ、緑化に努めるのはいまさら当然のことだけど、せっかくこんな暑い日に効果があるんだかないんだか分からないような“記念日”が設定されているんだから、クソ暑くて頭も回らないけど、都市のエネルギーを節約し、ヒートアイランドを解消する方法というのを、ま・じ・め・に・考えてみることにした。

 まずすぐに思いつくのは、使い捨てにしている水を簡単に処理してその辺にばらまくこと。要は中水利用なんだけど、便所の水に使うだけじゃなく、都市を冷却する水として使うのだ。打ち水の知恵を使うわけである。壁面にツタをはわせて屋上からじゃぶじゃぶ水をぶっかければなお効果的だろう。次には、ビル毎に排出するエネルギーに比例して税金を課すこと。そうすれば、カッコイイだけでエネルギーの無駄遣いばかりしているビルは不人気になるだろうし、意識も少しは省エネの方向に向かうかもしれない。3番目はいきなり身近な提案になって、エアコンをなるべく「除湿」運転にすること。実は、これが一番効果的かもしれない。自分はこれでかなり電気代の節約になっている。「除湿」でも結構涼しくなるし、電気代は随分違う(*)。

 では、建物の形式としてはどんなものがいいのだろうか?「緑を増やすために建物をどんどん超高層にしよう」というのは一見もっともらしいけど実はバツ。確かに超高層にすれば、地上には少しは緑は増えるかもしれない。でも、それ以上の容積が上空に積み上がることになるし、しかも中低層の建物であれば、窓を開けて自然の風を入れることはできるけれど、超高層はいくら省エネに努めようが、自然の風を利用することがない“密閉された箱”である。緑を増やすなら中低層+屋上緑化の方がよっぽど効果的だろう。FIXガラスばかりが多用され、空調機器に頼っているような建物はもちろんバツ。地面全体をハードカバーで覆うのも当然バツ。最近は、エコロジーに配慮した建物というのも、随分見かけるが、これ見よがしな“エコ設備”が大々的に導入されている割には存在自体が全然エコロジカルでない建物も多い。そういうのももちろん論外。開発業者にとっては(そして建築家にとっても)、“エコ”は単なる売り文句に過ぎない。単に窓を開ければ済むものを、わざわざ“エコ設備”を導入して建設費を高くする。それは単に付加価値をつけて高く売りたいだけのこと。その発想自体が全然エコではない。要は自然の力を最大限に利用し、空調機器などのエネルギーに頼らないようにすることだ。それが単に窓を開けることで済むのなら、それで十分なんだと思う。

 

注(*):最近の“除湿”しても冷えないタイプのエアコンではもちろんダメです。それと、従来型エアコンでも“除湿”だと、かえって電気を食うという説もあり。水分を除去するためにどんどん冷やしてしまうからなんだそうだ。でも、事務所のエアコンだと明らかに“除湿”だと冷えなくなるし、電気代も安くなってるように思うんだけど・・・。

2002/07/28(日):都会の真ん中の“クールな花火”

 いよいよ花火の季節ですね。真夏に花火はかかせないものですが、昨晩、隅田川の花火大会に行って来ました。といっても、ちょっと変わった花火見物でした。友人のY君が浅草ビューホテルに家族で泊まりに来ていて、あまりに特等席なので、見においでよと誘ってくれたのです。

 全国津々浦々さまざまな花火大会がありますが、ある意味では隅田川の花火ほど壮観な花火は他にはないかもしれません。なにしろ花火と言えば、河原とか海岸とか広い場所で広々とした夜空に大輪を咲かせるものと相場は決まっています。でも、隅田川の花火はそのような常識を覆すようなものなのです。隅田川は川とは言っても河原なんて存在しないドブ川で、川幅も狭いですから、まるでビル街のど真ん中で花火を上げているようなもの。一発一発の大きさこそ小さいですが、そんなところで2万発の花火が打ち上げられるのですからそれはそれですごい迫力です。しかも、集まる人が100万人。川べりだけなく、そこここの道路や路地、ビルの屋上まであらゆる隙間が人、人、人で埋め尽くされていて、本当にこんなところから見れるの?っていうような場所まで人が鈴なりになっているのは、花火以上に壮観な風景でもあるわけです。

 僕は人混みがあまり好きじゃないので、ずっと隅田川の花火は敬遠していたのですが、数年前に初めてある会社の屋上からここの花火を見る機会を得ました。ビルの屋上なんてふだんは空調機器のクーリングタワーがブンブンうなっているような場所でとても人がいられるような場所ではないんですが、この時ばかりは、どこのビルの屋上も宴会の桟敷と化していて提灯がたくさんともされ一種異様な光景を醸し出していました。通常の空間の意味とはがらっと異なった“ハレ”の空間構造が現れるというのは祭りの特性なんですが、現代ではこのような形での空間の転用がなされているのかなどと思いを巡らしていると、突然、ビルの隙間からバンバンという音と共に炎が吹き上げてきて、あたりをパアッと照らしていったのです。ビル群と花火。あまりに唐突な組み合わせに口をあんぐりと開けたまま、花火に見入っていました。

 昨日の花火見物も過去のどの花火とも違う不思議な花火でした。なんていうか、一言でいうと“クールな花火”なんですね。浅草ビューホテルからの花火は特等席と言われていて、この日の予約は1年近く前から埋まっているそうですが、ガラス張りのベイウインドウ越しに見る花火は、音や煙を伴わないので、星空がいかに輝いていても温度を感じないように、火というよりも光という印象の方が強いのです。サッカー見物に例えれば、数年前の花火見物は人いきれで蒸しかえる“ゴール裏”、今回は空調の効いた“ロイヤルボックス”そんな感じでしょうか。外の静けさに対して部屋の中は賑やかなので、その対比が不思議な感覚を醸し出していました。花火というものは実は花火自体を見るものではなく、都市と花火の関係を見るものなんだなというのを改めて感じました。どこから見るか、それによって随分違った印象になるのです。次回は、また違った場所から違った風に見てみるときっと面白いかもしれません。

2002/07/25(木):アンチ・クライマックスな日々

 最近、日記の更新頻度が減ってるじゃないかって? そうなんです。俗に言う倦怠期ってやつなんでしょうか(笑)。マメに更新をするようになってほぼ1年が経つのですが、「10年前の日記」(1991年〜1992年)もちょうど1年でプッツンしてしまいましたし、1年ていうのは、ちょうど飽きが来るタイミングのようです。タイトルにもあるようにこのまま惰性でだらだらと続けていってもいいのですが、そろそろ趣向を変えようかとかいろいろ考え始める時期でもあるんです。

 何しろ、私は小泉首相でもなければ、ビル・ゲイツでもありませんので、日記に書きたくなるようなおもしろおかしい事件が日々続くわけではありません。村上春樹が「辺境・近境」というエッセイの中で“アンチ・クライマックス”という表現を盛んに使っているのですが、私の日々の暮らしもほとんどの方と同じく、来る日も来る日も同じことの繰り返しであるわけです。もちろん、仕事は面白いですし、日々それなりの変化はあるのですが、似たようなことが繰り返されれば、新鮮さには乏しくなる。それは仕方のないことです。村上春樹が“アンチ・クライマックス”という表現を盛んに使っているのは、そのような繰り返しの日常の中でいかに昨日と違う“自分”を見つけていくかそれが“旅”だということを言いたいんでしょう。ノモンハンのような本物の辺境の旅も彼の故郷である神戸の街歩きのような近境の旅も同じ“旅”には違いないというわけです。

 韓国ではW杯後、燃え尽き症候群というのが問題となっているそうです。お揃いの赤いシャツを着込んで国全体での一体感を味わった充実の日々。それが、大会が終わっていざ自分の仕事に戻るとあまりの落差に呆然としてしまうんだそうです。自分のやっていることとは別のところに楽しみを見いだすのはそれはそれで結構なのですが、根本的な解決には至ってないというわけです。イベントなんて一過性のものですから、やはり、変化は日々の暮らしの中で見いださないといけないのです。

 自分の場合、毎日なにかひとつは“自分にとっての発見をしよう”とは心がけています。そうであれば、今日という日は必ず昨日とは違う日になるはずですから。もちろん、日々大発見なんてできるわけはありません。だからほんの些細なことでもいいのです。以前、女友達から“ホームでひなたぼっこをするカマキリ”の話を聞かされたことがあります。あまりにのどかでなおかつほほえましい話題だったので、すごく新鮮でなおかつものすごく得をした気分になりました。忙しい日常に流されていて、そんなところまで目を配る余裕がなかったんですよね。改めて足元にも目を配ることの大切さを教えてもらったのです。でも、その話を他の友達(男)にしたら、「でもさ、毎日カマキリの話をされたらたまらないよね」と言われてしまいました。そう、確かに毎日カマキリの話題ではいけません(笑)。

 いよいよ何も見つからないときはどうするのかって?日記ですよ。日記。だって、今日は朝起きて、歯を磨いて、会社へ行って、上司に怒られて、家に帰って、テレビを見て、寝ましたっていうんじゃいくらなんでも日記にはならないでしょう。日記を書けば、いやでも毎日が新鮮になるはずです。どうですか?単調な毎日に刺激を与えるため、日記、始めてみませんか?

2002/07/14(日):「ルイス・バラガン展」&「フェラーリ&マセラッティー展」

 東京都現代美術館で開催されている「ルイス・バラガン静かなる革命展」&「疾走するアート−フェラーリ&マセラッティー」展。ともに今日が最終日。入口からものすごい行列ができていたので、さすがフェラーリ。マス・プロダクトの威力はすごいなと思いきや、ルイス・バラガン展の方も結構な人だかり。建築の展覧会でこんなに人が集まるなんて正直いって驚いてしまいました。

 実物が見れるわけではない。体験できるのはあくまで2次情報。それが建築の展覧会と他の分野の展覧会が圧倒的に異なる点でしょう。つまり、2次的なメディア(この場合は写真、図面、模型、ビデオ&文章から構成される展覧会という存在)を通して、1次メディアとしての作品(この場合は建築物の存在)を見るという二重性を有しているわけです(*)。メディア化の過程は何回踏んでもいいわけですから、本来メディアの二重性というよりも多重性というべきでしょうが、まず、このことをきちんと自覚しないとおかしなことになってしまいます。

 気をつけなくてはならないのは、オリジナルの作品(=1次メディア)と2次(以降の)メディアは関連はしているけれども本質的には別物だということです。基本的にこのような展覧会で出展されているメディアは作品を紹介するものですが、2次的なメディアではどうしても伝わらない“質”というものはあるわけですし、逆に、2次的なメディア自体を「本来の作品にはない質を持つ独立した価値を持つ作品」として見てももちろんいいわけです。

 バラガンの建物に特徴的なのは、いうまでもなく“空間や色彩のコンポジション”でしょう。水平、垂直を意識した空間の分割。特に、垂直壁によって空間の閉鎖と開放のリズムを作り出していくのが彼の建築の特徴だと思います。極めて抑制された表現ですが、機械的な冷たさというものはなく、窮屈な感じもありません。光や水はメリハリをきかせた象徴的な扱いですが、素材や植物にはむしろ柔らかさを感じます。その良さは写真や図面でも十分に伝わってきます。でも、彼の建築がメキシコの風土とどう関係しているのか、建物がどんな場所に位置し、光や風や空気や温度というものが時間や季節でどのように変化していくのか、あるいは、人の暮らしとどのような関係が構築されているのか、そのような点は良くわかりませんでした。全体模型や空間の流れを写したビデオがもっとあると良かったのですが、いずれにしても展覧会でそれを伝えるのは限界があり、実際に彼の建築を訪れてみないとわからない点が多々あるのは仕方がありません。建物を訪れた人とそうでない人の間に大きなギャップがあるのは当然です。私の場合、メキシコに行ったことはありませんから、想像力だけが頼りです。この種の展覧会では見えているものを追うのも大事ですが、もっと大事なのは、“見えていないものを見る”ことなのです。

 ルイス・バラガンに限らず、建築の場合、メディアのフィルター通して強く浮かび上がってくるのが、常に“コンポジション”であるというのは間違いありません。ですから、注意しないと、コンポジションとしてしか建築を見ない、コンポジションとしてしか建築を感じないというようになりかねないのです。メディアの多重性を意識しないといつの間にかメディアのフィルターを通ってくる価値しか見ようとしなくなってしまいます。バラガンの建物は十分に魅力的だとは思いますが、今なぜ彼の建物が話題になっているのかを考えてみると、理解されているのはコンポジションの美しさであって、彼の建築の存在そのものの理解にはまだ至っていないのではないかという気もするのです。

 バラガン展のついでと言ってはなんですが、どうせここまで来たのだから「疾走するアート−フェラーリ&マセラッティー」展も見ることにしました。あまり期待はしてませんでしたが、展示されていた車の多くは、ふだん見ることのないレースや試作品として作られた車だったので、興味深く見ることができました。そのような車は、デザイナーの意図がダイレクトに反映されたものなので、デザインのグレードが全く違うのです。フォルムだけを取っても、曲面といった陳腐な言葉でくくられるものではなく、全体として柔らかいボリュームを作ろうとしたもの(フェラーリ166MM)、面をある程度意識して構成しようとしたもの(フェラーリ ミトス)、タイヤハウジングや運転席の存在などを際だたせつつ全体のフォルムの中に取り込んだもの(フェラーリP5)などいろいろあるわけです(日経ネット:写真で見るフェラーリ・マセラッティーの世界)。見とれるほどのセクシーなフォルムに加えて、特筆すべきはパーツの自立性。フロントグリルやライト、テールのデザイン等、すごく生き生きしていていたのが印象的でした。

 展示されている車はもちろん“実物”です。おそらく写真やビデオだけでご覧になってもそのフォルムの美しさや質感は伝わらないかもしれません。ひょっとすると写真だと単に変な造形の車としか見えないかもしれません。でも、それは仕方のないことです。コンポジションや色彩だけでものの価値が伝わるなら、実物なんて見る必要はありません。こんなのは、当たり前の話といえばそうですが、実はそうでもないのです。カーデザインの業界は知りませんが、建築業界は間違いなくヤバイです。写真や図面でわかった気になっている人がたくさんいるからです。バラガンを知った・・・しかし、それは単に自らの想像力の及ぶ範囲での話。それを自覚しておくのはものすごく重要だと思うのです。

 

注(*):建築のようなものを“メディア”と見ることには違和感があるかもしれませんが、建物もある種のイメージの変換装置となっているわけですから、メディア的な性格はあるわけです。

2002/07/07(日):1カウントの本当の意味

 先月、カウンターの数字がようやっと10000を超えました。サイト開設から3年半。随分と時間がかかってしまいました。でも2年半は寝てたも同然ですから、実質的には1年ちょっとでの到達です。最近は、リピートしてくださる方もそれなりにはおられるようで嬉しい限りです。アクセス数は、正直もう少し伸びていって欲しいのですが、なかなかトントン拍子というのは難しいようです。検索サイトや検索エンジンには片っ端から登録してみたり、いろいろと努力はしているのですが・・・。

 インターネットというのは、ご存じのようにカテゴリーとキーワードが鍵を握る世界。あるサイトへアクセスする場合、カテゴリーを辿ってくる場合と、キーワード検索でジャンプしてくる場合の2通りがあるわけですが、私のサイトの場合、カテゴリーを辿るルートでは、来訪者の増加はあまり期待できないでしょう。建築系のサイト自体が全般的にあまりアクセスされていないからです。では、キーワードの方はどうなんでしょうか?最近、アクセス解析といって、来訪者がどこからやって来て、どのページへのアクセスが多いかということを調べているのです。それによると(アクセス解析:5月中旬〜7月上旬)、キーワード検索でジャンプしてくる人が思いのほか多いということがわかったのです。ページ毎のアクセス数も、<My Favorite WEB sites>(リンク集)や<CAMERA Watching>(カメラの紹介)のようなキーワード中心のページへのアクセスが期待以上で、特に、<CAMERA Watching>は上位に位置する<Photocamera>のコーナーの5倍以上になっているという意外な結果になりました。おそらく、これらのページへは、検索エンジンのキーワード検索から一気にジャンプしてくるのだと思います(*1)。逆に、言葉が少ない画像中心のページへのアクセスはあまり伸びていないのです。ヴィジュアルな方がうけると思いきやどうもそうでもないようです。内容の善し悪しとも必ずしも相関していません。インターネットがいかに、“キーワード”に依存しているかというのを示していて興味深い結果でした。

 つまり、キーワードを意識すれば、アクセス向上は可能というわけです。でも、それが意味があるかどうかはまた別の話でしょう。インターネットを利用する人は5000万人もいるわけですが、その中のごくごく一部の方がキーワード検索に引っかかって、たまたま訪れてくれたとしても、そのような人が自分のサイトをじっくり見てくれているとは限らないからです。自分がネットサーフィンしている場合を考えてみても、クリックはするけれどそのまま去ってしまうサイトというのは山ほどあります。ヒットされやすいキーワードが多く埋め込まれていれば、カウンターの数字は自然と増えていくかもしれません。でも、それと内容的なインパクトとはあまり関係がないのです。アクセス数の多いサイトを集めた“リンク集”的なサイトあるいは、2次情報を集めたサイトが高いアクセス数を記録していることはそのことを端的に物語っています。そのようなサイトは、取りあえずアクセスはしてみますが、単に踏み台として利用しているだけなのです。リンク集をクリックすると行き着く先がまたリンク集だったりして、挙げ句の果てに元のサイトにいつの間にか戻っていたり、結局うろうろしているだけで得たいものは何も得られないということはしばしば起こります。そして、うろうろしている間、それらのサイトのカウンターは確実に上昇を続けてゆくわけです(*2)。まるで、日本経済を象徴しているようですね(笑)。

 なるべく多くの人に見てもらうというのは、サイト構築の重要な目的です。でも、もっと重要なのは、数の問題ではなく、確実にコミットしてくれる人に対し、深く、強いメッセージを発信することでしょう。その際、重要なのは「どういう視点」で「何を」見ているのかを明確にすることだと思います。価値判断の伴わない“情報”ではあまり意味はありません。自分の場合、作品の紹介以上に、建築・都市・デザインといった分野での「自分の思い」を伝えることを目標にしています。そんなことをして訪れてくれる人の役に立っているのか?単なる自己満足ではないのか?と思った時期もありましたが、ポジティブな評価をいただくと、こんなものでも頑張ってみる価値はあると最近つくづく思うのです。

「内容の濃い凄いサイトですね。すばらしい。」

「建築や社会に対する意見は、その鋭い切口と流行や主流に迎合しない主体的な考え方が、読んでいて心地よいです。」

「サイトに書かれているさまざまな内容のうち、特に“Vision of Design”のセクションを読ませていただいて、私は胸がいっぱいになりました。」

 メールや掲示板の反応はポツリポツリなのですが、時たまこのようなメッセージを頂きます。類は友を呼ぶということなんでしょうか(笑)。でも、このようなメッセージを頂くと俄然やる気が出てきます。強いメッセージを発信すれば、それをきちんと受け取ってくれる人は必ずいる。単にアクセス数の問題ではなく、そのようなコミュニケーションをしっかりと確立する。私にとってのサイトとはそのようなツールです。

 

注(*1):サイト開設者にとって、上位ページを飛び越してアクセスされるというのは、実はやっかいな問題です。サイトはほとんどの場合、ツリー構造で構築されていると思いますが、その体系が無視されてしまうからです。フレームが無視されるのも大きな問題です。せっかく、メニューと内容とを同時に表示させているのに、内容だけが表示されてしまうからです。サイト開設者はある文脈の中でページを作っていますが、受けての方は文脈なしで、いきなり目的物に到達してしまう。このズレはインターネットが持つ大きな問題でしょう。

注(*2):バナー広告はアクセス数に比例して広告料が設定されているケースが多いので、広告料を得たいがために、サイトに関係のない無意味なキーワードをたくさん埋め込んだり、いくつかのサイトをリンクしてループを作り、いつの間にか元のサイトへ戻って来るというようなセコイ手法も使われているようです(特にアダルト系のサイト)。

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