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 今の建築は完璧さが人を拒んでいると思います。私の目指すところは、細かいことにとらわれずおおらかに人を包み込む建物です。人を服従させる空間ではなく、創意工夫の起点となる空間を作りたいと考えています。

 建築は見るためではなく、過ごすためにあります。いい洋服が体にフィットするように、いい建築は生活にフィットします。一人歩きする建築ではなく、人と共に歩む建物でありたいと考えます。

 ぎらぎらとした乾いた建築は好きではありません。しっとりと落ち着きのある建物が私の好みです。

 大それたことですが、時代にシンクロする建築よりも、時代を超えて存在する建物を作りたいと考えています。現在の状況に最適化するのではなくもっと長きにわたって存続するマナーを見つけだし、それを空間としてシンプルに表現したいと考えています。

1.メインテーマ・・・「響き合うデザイン」

 「響き合うデザイン」の対極にあるものはなんでしょうか?私は、それは「死のデザイン」であると考えています。既存の文脈と断絶した自己表現の手段としてのデザインが唐突に現れる。既存の文脈から断絶しているからこそ成立しているそのような表現は、視覚的な印象の強さゆえ、初期的にはインパクトを持ちますが、風土や生活との関係性の希薄なそのような“記号としての建築”は時間を経るにつれ容易に消費されていってしまいます。

 ファイン・アートならば、表現強度で勝負することもありでしょう。モードならば流行遅れの古い殻は脱ぎ捨てればいいでしょう。しかし、建築は毎日そこで過ごすものなのですから、表現が生活の足かせになるようではまずいと思います。記号として消費される年数が建築物としての耐用年数に比べ圧倒的に短くなっている。それが今の建築のもつ根本的な問題です。使っているうちに古くなるならまだしも、設計中あるいは建設中に消費されて古びてしまうという笑えない例も頻発しています。廃墟をメタファーとした建築物が一時はやりましたが、そのような建築物は今や本物の廃墟となっています。流行のミニマル建築も単に表現の強度ばかりを追及したものならば、早晩廃墟となることでしょう。

 “記号としての建築”は言葉や図面、パース、写真、模型などの「情報化された次元」で思考されたものです。ですから、“情報化建築”と言い換えてもいいわけです。“情報化建築”は現在、雑誌などのメディアをたくさん賑わせています。「空間的な建築」がメディアに取り込むためにはそれなりの調理の腕を必要とするのに対し、メディア写りのことを最優先に思考されたものですから、言葉や写真や図面で表現されたときに美しく魅力的に見えるのは当たり前なのです。現実から乖離しているからこそ、非日常性な美しさを有しているわけで、そのように思考された建築が現実化するにつれ徐々につまらないものになるのはなかば自明とも言えます。しかし、利用側にとってはあくまでも重要なのは現実の空間です。

 重要なのは、言葉や図面、パース、写真、模型などの「情報化された次元」で考えるのではなく、「建物が成立している次元」に常に立ち戻って考え、イメージを組み立てることです。図面や絵で考えるとありえなさそうなことも空間的に考えればあり得るし、写真上での気持ちよさと実際の空間における気持ちよさも基本的には別物です。写真には風も吹かないし雨も降りません。暑さ寒さの感覚もありません。現実の空間の持つリアリティーを常に失わないようにしなくてはならないのです。

 「響き合うデザイン」それは一体何と何が響き合うものなのでしょう?それは「全てが同時に響き合う」のだと思います。それは、風土や生活と緊密な関係を持ち、存在と意味の両方において豊かな世界を醸し出すデザインです。言い換えれば、デザインが風土や生活によってしっかりと構造化されるということです。そのようなデザインは関係性が日々更新されていくため、容易には消費されません。例えば気候と密接な関係を持った建物は、変化が一巡するのに少なくとも最低一年はかかります。材料の風合いが変化し、生活の様相が変化すれば二年目は一年目とはまた違ってゆくでしょう。二年目は一年目には見えなかったことも見えてくるはずです。そうやって長い年月を人と共に過ごしていくのです。均質化、抽象化された“記号としての建築”はもともと居心地が悪い上に、そのような変化は希薄です。だからすぐに消費されてしまうのです。立ち上がりのイメージの強度ばかりに心を奪われて、無用の長物と化した“消費建築”と長い時間をともにしなくてはならない。そのようにならないためにもしっかりとした考え方を持つ必要があるのです。

 建築の素晴らしいところは、消費速度の速い現代にあって、ゆったりとした時間感覚を持っているところです。あたかも、樹木がゆっくり、ゆっくり成長するように、固有の時間が流れていく。私はそのような空間が望ましいと考えます。

 

2.建築の基本的な性質

(1)人を包むものであるということ

 基本的にこの世の中で、人が使うもので人を包むように存在するものは乗り物と建築物ぐらいしかありません。これは建築の極めて重要な性質です。建築は基本的に外から鳥瞰的に“眺める”ものではなく、内側から部分的な体験の連続として“関わる”ものなのです。もちろん、外観や全体構成の重要性に意義を挟むつもりはありませんが、それ以上に具体的な体験の場としての“質”が重要です。私は、全体から割り込んでいって空間を作るのではなく、場面場面のつながりが緩やかな全体を作るようにしたいと考えています。

(2)土地に密着したものであるということ

 乗り物は移動することに特徴がありますが、建築物はずっとそこにとどまっていることに特徴があります。もちろん、建築とて未来永劫のものではありませんが、“そこにずっととどまっている”ということは無視できない極めて重大な性質です。すべてはそこから出発するといっても過言ではありません。敷地にとどまるということはその土地固有の文化や歴史を引きずるということですし、その土地の由来というものからも離れては存在し得ません。また、物理的な条件(立地、周辺の状況、接道条件、敷地の規模・形状、法的規制など)からも直接的な影響をうけます。

 最近、建築を敷地から切り離されたニュートラルなものとして扱おうとする傾向が強まりつつあります。あたかも美術作品のように自立したものとして扱おうとする傾向です。世界中おなじスタイルの建築が“流通”しています。しかし、注意しなくてはならないのは、流通しているのは、“建築物から切り取られた情報”であって、建築自体ではないということです。建築自体は決して流通し得ないのです。極めて当たり前のことですが、このことはしばしば忘れ去られます。

 流通する情報によって我々の心に新しいイメージが現れることは事実です。今の時代はそのことに無縁ではいられません。しかし、それがスタイルとして具体的な土地に唐突に移されるとしたら、イメージと現実との大きなギャップが生じるのは当然です。欧米のスタイルが矮小化された事例というものは、それこそいくらでも探し当てることができますが、やはり、建築はあくまでその敷地でなくては成立しない固有のものとして考えるべきなのです。

(3)一品生産として作られるものであるということ

 土地に密着したものであるということは、同時に建築が常に一品生産ものであることも意味します。建築はひとつとして同じものはなく、常に現場に行って作るものであるということです。もちろん、工業化される部分はありますが、それとて一種の下ごしらえのようなものです。料理そのものは基本的に現場でするのです。従って、使われる技術も技術集約的な先端技術ではなく、だれでも扱うことのできる汎用技術が中心になっています。

 そのような特徴は決してネガティブなものではありません。皆さんは、一流のシェフが自ら素材を吟味し自ら腕を振るって調理した手作りの料理と、ファーストフードやファミリーレストランのように極めて近代化された料理とを比べたときに後者の方が進んでいるとお考えになりますか。工業化社会の初期の頃は後者の方を良しとする考えは確かにあったでしょう。しかし、ポスト工業化社会、成熟化社会においては、前者にも大きな価値があることは言うまでもないことです。同じものが2つと存在しない。それは今の時代では極めてまれな優れた特徴であると思います。

 

3.家づくりの考え方

 一口に建築と言っても扱う対象は広いです。規模も用途も社会的な意味も異なる広範なものを一緒くたにして語るのは、難しい面もあります。もちろん、全てに渡って言えることもありますが、一般的、抽象的な表現になってしまいがちです。私は、具体的に踏み込んで何かを言おうとした場合、1.公共的な建築(スタジアム、交通施設、官公庁施設、ホール、ミュージアムetc)、2.産業のための建築(店舗、ショールーム、工場、事務所etc)、3.居住のための建築とにそれぞれ分けて語った方がいいような気がしています。

 どんな建築であっても基本的に居心地の良さというものは必要ですが、公共的な建築であれば文化的表現としての象徴性ということが中心的な話題となるでしょうし、産業のための建築であれば商売や商品のことが主要な関心事となるでしょう。そのような建築においては象徴性や記号性は必要だと思います。ただし、その場合でもあくまで“記号的な要素を含んだ建築”であるべきで“記号としての建築”になってはならないと思います。

 “記号としての建築”に反対の立場をとる私としては、まず、住宅のデザインについて述べることにします。「住む」というのは一番ベーシックな行為だからです。前ニ者については、また機会を捉えて記述することに致しましょう。

(1)風土や地域性に根ざした家

 大きなスケールの話からすると、まずその建物が存在する風土というものを考える必要があります。風土というのは気候・地理的な側面と文化的な側面が合わさったものと考えることができるでしょう。「アジアモンスーンの風土の中にあり、春夏秋冬が明確な島国としての日本」の存在は、まず第一に生かすべき大きな財産です。

 二番目に考慮するべき点として、地域性が上げられます。狭い島国ではありますが、日本ほど空間にヒダの感じられる国はありません。それは世界中の国を旅してみて実感として感じられることです。一本川を隔てるだけで、一つ尾根を超えるだけで、様相が微妙に変化するのです。

 三番目は敷地から読みとれることです。文化的に読みとるべきことも多々ありますが、物理的な用件として読み込むべき要素に限っても様々なものがあると思います。私が特に重視しているのは、表裏の感覚、周辺の建物にたいする間の取り方、そして方位です。空間には密度の差が必要だと思います。生活にもヒダがあるように空間にもヒダが必要です。そのような空間を作るために表と裏の感覚、間の感覚、そして方位を活用するのです。

 風土性から読みとれるものは、光、風、水、温度、湿度といった気候的な面と、その土地の生活習慣などの文化的な側面との両面があります。「住まいは夏を旨とすべし」という古くからのことわざがあります。高温多湿の夏を乗り切るための生活の知恵ですが、この言い伝えはもちろん現代にも当てはまるものです。しかし、生活様式や周辺環境など、大きく変化している要素もあり、読み替えは当然必要です。風土性や生活感と呼応するすまいは、唐突にそこに置かれるものではなく、風土や生活によって絡め取られたものです。それは、建築ばかりが威張りくさっているようなものとは180度異なるものと言って良いでしょう。

 

(2)大きな道具あるいは、身体の延長としての家

 最近、視覚的表現や空間構成体験の場としての住宅の姿ばかりがクローズアップされています。造形的にはインパクトがあるそのような住宅もこと生活との関係となるとえらく窮屈でぎこちないもののように思われてなりません。私は、むしろ“大きな道具”あるいは、“身体の延長としての家”のあり方を追及しています。生活するという行為にたいして家の方が自然についてくるそのような関係を理想としています。ただし、それは現状の生活をただなぞることを意味しません。いい道具を使うことによって、その人の腕前が上達するように、いい空間はその人の生活を刺激し、より豊かなものに変えていくからです。住み手(ないしは使い手)の個性の投影の仕方は、プライバシーということひとつとっても、人の視線を全く気にしない人もあれば、すごく気にする人もいます。その人にあった空間の方向性というものが当然あるわけです。従って、その人にあった空間の方向性を延ばしていくことが大切です。

a.ハイブリッドな生活様式の投影

 まず、重要視しなければいけないことは、現在の生活様式(ライフスタイル)というものが、情報化社会のなかで獲得されたグローバルな要素と元々の風土がもっている土着的な要素の両面が重なり合ってできているものだということです。そのようなハイブリッドな生活様式抜きに現代の生活を語ることはできません。インターナショナルなスタイルと伝統的なスタイルのどっちを取るかという問題ではありません。そもそもインターナショナルなスタイルというものがあるわけではなく、欧米のライフスタイルがメディアに乗って流通しているだけの話です。それを単に猿まねするのは愚かなことです。結局は、生活する人がどの辺にリアリティーを求めているのか。それがその人のライフスタイルになるのだと思います。

b.ゆるやかな空間のグラデーション

 次に、空間と生活との関連を考えた場合、私は、空間を生活に対して多少ルーズに設定するように意識しています。いくらウエディングドレスがキレイだからといってそれを毎日着れる人はいません。住宅においては、スーツのような空間もあまり好ましくはありません。基本的には普段着として着れるものでなくてはなりません。それに、建築というものは汎用性の高いものですから、あまりひとつの方向に決め込みすぎると、結局は生活から自由度を奪い、生活を窮屈なものにしてしまいます。従って、ある特定の状況においてベストフィットを見つけるのではなく、膨らみと余白をもたせるような空間の設定の仕方が重要になるのです。

 私の場合、まず動作という視点で生活を捉え、それを空間に置き換えることにしています。既存のLDKの概念にとらわれる必要はないでしょう。要は、「食べる」「作業する」「くつろぐ」「寝る」といった行為の性質に応じて、適切な空間が用意されていれば良いと思います。空間をつなげるか、分けるか、あるいは兼用するかなどはケースバイケースです。重要なのはそれらの行為がなめらかに繋がっていくことです。「食べながらくつろぐ」ことは良くあることですし、「寝ながら作業する」ことだってあり得ます(実際、今現在この文章は深夜にふとんに潜り込みながらキーをたたいています)。友達が大勢訪ねてきた場合は、ふだんの生活とは必然的に異なる使い方になるわけで、ここでもある種のルーズさが必要となるのです。もちろん、きちんと区切った方がいい場合もありますが、多くの場合、わけるよりもつなげることを意識しています。

 どんな空間においても、常に“人の動線”と“空間の溜まり”とを十分に意識し、動作の性質に応じた空間を用意しつつ、それらの空間がなめらかに繋がっていくことを意識しています。内部と外部のつながりにおいても、状況に応じて軒下空間などを取り込みつつ緩やかに繋がっていくようにするべきでしょう。

c.シンプルで無駄のない空間

 そのような空間の組み立てをする際には、常に「シンプルで無駄がない空間」となるように考えています。「シンプルで無駄がない空間」とは、見た目にすっきりとしていてカッコイイ空間のことではありません。本来的には、空間が重層的な役割を担い、空間どうしの関係あるいは空間と生活との関係をシンプルな関係に還元することで煩雑さを防ぐ思想なのです。つまり、専門分化した状態よりも未分化の状態を良しとするのです。意味的には余白をもたせることで、想像の自由度の高いより豊かな空間をめざす思想でもあります。くどくど説明の長い文章よりも詩の方が意味に広がりがある。それと同じことです。

 現代の生活はいろんなもので溢れています。ものだけではなく、行為としても様々な要素があります。それら個々の要素にそれぞれ個別の解答を与えていては、全体としての関係性はかえって煩雑なものになり結果的にわけがわからないものになってしまいます。わかりやすい比喩で言えば“ナイフとフォークの文化”よりも“箸の文化”の精神であるということです。

 それは流行の“記号としての建築”が持つシンプルさとは全く異なります。それらの建築が持つシンプルさは見た目だけのもので生活はむしろ窮屈です。あくまで生活を生き生きさせるためのシンプルさでなければ意味がありません。

d.コンバーティブルな空間の転用

 そのような考え方に基づけば、当然、ひとつの状態で全てを満たすのではなく、生活の場面に応じて空間を切り替えていくことも必要となります。伝統的なライフスタイルで言えば、タタミにちゃぶ台を置けば、ダイニングになるし、そこに布団を敷けば寝室になるわけです。そのような考え方が決して専用の部屋を用意する思想に劣るものでないことはフォークと箸の比喩によって理解していただけるかと思います。スタイルとしてカッコイイか悪いかという次元で議論するのは馬鹿馬鹿しいことです。もちろん、タタミ部屋を復活せよと言っているのではありません。現代のライフスタイルにあったコンバーティブルな転用の仕方を考えるべきということを言いたいだけに過ぎません。実際にはそれが建具であったり、可動式家具であったりしても良いわけです。

e.「光」「風」の自由な家

 今まで、語ってきたことはすべてライフスタイルとの関係です。気候との関係においては、「光」や「風」をいかにして取り込むかが課題となるでしょう。単にのびのびと心地良い空間を作るだけでなく、刻々と変化する光や風と一体化することによって絶えず新鮮な状況が生まれることを意識する必要があるのです。

 

(3)生活を刺激し日々発見のある家

 ある種の刺激的要素、つまり“驚き”のようなものはどのようにしてもたらされるのでしょうか。既に述べたように、驚きのある空間は奇をてらったものをいきなり投入するのではいけません。

 “驚き”とは端的に言って、生活と空間の関係をつきつめていって、本質的な部分から生じる“発見”によってもたらされるものだといえます。しかもそれは生活からかけ離れた唐突なものではなく、生活にしっかりと構造化されたものでなければなりません。“驚き”は住み手との応答の中で見つけだしていくものですから、それが何であるかをあらかじめ明らかにすることはできません。しかし、私が一般的に意識していることはあります。ただし、しつこく繰り返しますが、それもモノが持つ魅力を拡大するのではなく、あくまで生活の器として適切な方向性でなくてはならないと考えます。

a.空間の方向性の強調と引き延ばされたような感覚

 限られた空間をよりリッチにするためには、空間の物理的距離や広さよりも、心理的な距離感や広さの感覚をどう作るかが重要です。空間の方向性を強調し引き延ばされたような感覚を作り出すことは非常に効果的だと思います。空間にメリハリが生まれるし、奥行きというか距離感が発生し空間がのびのびとした感じになるからです。具体的なノウハウには様々なものがあるので詳しくは触れませんが(企業秘密?)、私はそれを常に意識しています。それが敷地の持つ特性とそこに営まれる生活とを強化する方向に向かえば言うことはありません。

b.構造や素材の生々しさの表出

 構造や素材は建築をささえる単なる“手段”ではありません。私は、構造や素材を建築する行為そのものとして捉えています。幸いなことにこの国では構造や素材をそのまま生かしていく文化に長けています。建築だけではなく、料理を見てもそれはお分かりいただけることでしょう。ですから、お化粧を加え手をかけたこってりとした空間を作るのではなく、構造や素材がそのまま空間になる方向を目指したいと思っています。伝統的な材料ばかりでなく、現代の工業化された材料についても意外性に富んだ積極的な活用を試みたいと考えています。

c.規則性が生み出すドミナントなリズム感

 伝統的な建築と現代の建築を隔てている点。私はそれは規則性にあると思います。規則的であることは合理的であるからです。それは工業化ともシンクロします。規則性というとネガティブに捉えがちですが、それをドミナントなリズム感を生み出すポジティブな要素として積極的に捉えようとしています。あえて規則性を強調するようなデザインも意識してやっています。もちろん、それが単調さを生み出す方向に向かってはいけないのはいうまでもありません。

d.空間の反転

 あるはずのものがそこにはなく、ないはずのものがそこにはある。そういう状況を作り出すことは創造においては必要不可欠な過程だと思います。インテリアのようなエクステリア。エクステリアのようなインテリア。光の効果。ガラスの透過と反射の性質。そのような空間の反転による意外性の創出は常に意識するところです。

 

4.新たな地平・・・ハイブリッド・ヴァナキュラー

 いままで述べてきたような精神は地域に根ざした新しい土着性(ヴァナキュラー)を生み出すことを意図したものです。これを「ハイブリッド・ヴァナキュラー」と呼びたいと思います。この言葉は、建築家槇文彦氏による「インダストリアル・ヴァナキュラー」の思想から着想を得たものです。「インダストリアル・ヴァナキュラー」とは工業化による新しい土着性の創出という意味です。工業化された風土を前提として、新しい土着性を表現しようとする試みです。しかし、前にも述べたとおり、もはや工業化社会は終焉し、ポスト工業化社会に移行しつつあります。工業化が我々の生活を画期的に変化させたことは事実ですが、現代では手づくりがもたらす豊かさの再評価も同時に行われています。前近代の土着的要素も工業化による新しい要素も一旦受け入れた上での新しい土着的精神。それが「ハイブリッド・ヴァナキュラー」であると考えています。

 

2002/04/19UP、2002/04/23改

 

 

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